美食批評への誘い  Vol.36~40

クリティーク・ガストロノミック

 
フランス現代思想家

関  修(せき おさむ)

第三十六回
「食」の哲学に向けて
――按田優子『食べつなぐレシピ』を手掛かりに――

 おかげ様で三年目を迎えることになったこの連載は日本における「美食批評」の確立を目指して、その回数を重ねて参りました。その際、筆者が留意したことは、もちろん「批評」である限り、普遍的な妥当性を得るものでなくてはならないのは当然ですが、まずは「日本における」という筆者の暮らす国における状況を精査し、吟味することにあります。また、筆者の場合、さらに「批評」の対象を「フランス料理」及び「フランスワイン」になるべく限定し、「和食」・「日本酒」、「イタリア料理」・「イタリアワイン」などはそれぞれの専門家にまずは委ねるべきであると考えます。
 
 というのも、日本における「料理評論(家)」なるものは和食もフレンチものべつ幕なしにその対象としているからです。ラーメンやカレーといったいわゆるB級グルメと呼ばれるものには専門家がいらっしゃるのに、何故、フレンチや和食といった世界遺産にも登録されるほどの洗練された文化が専門家に批評されないのか。これは本末転倒としか言いようがありません。結局、「料理評論」と銘打っていますが、その内実はせいぜい「グルメエッセー」。そこにクイズ番組向きの蘊蓄が加わり、さらにその背景には高級店に行きまくれる「セレブ」自慢が人々に羨望のまなざしを向けさせているのではないか、と。しかし、これは「美食批評」とは直接の関係はないことと言えましょう。
 
 そこで、筆者は「美食批評」がどうあるべきかをこの連載で熟考しているのですが、どこの馬の骨ともわからぬしがない大学非常勤講師の戯言と思われるのがオチでしょうから、実際、フランスの美食批評(家)がどのようなものなのかお知らせすべく、ジル・ピュドロフスキ『ピュドロさん、美食批評家はいったい何の役に立つんですか?』(新泉社)を翻訳、公刊した次第です。ピュドロフスキは『ピュドロ・パリ』というパリのレストラン格付け本の主幹。『ミシュラン』は匿名のインスペクターによる評価が原則ですが、『ゴー=ミヨ』、『ルベ』と『ピュドロ』を含む他の格付け本は、『ミシュラン』に対抗して、「美食批評家」の名を冠することで、それぞれのガイド独自の存在意義を表わしているのです。ピュドロフスキは『ゴー=ミヨ』の出身、とりわけクリスチャン・ミヨの弟子を自任しています。そのミヨ、また『ルベ』のクロード・ルベが共に二〇一七年に他界した現在(アンリ・ゴーはすでに二〇〇〇年に亡くなっています)、フランスを代表する美食批評家はピュドロフスキの他にいないのです。昨年、二〇一八年、ロビュションが死去した際、AFP通信にその死を遺族の代理として公表したのもピュドロフスキでした。
 
 さて、ピュドロフスキの本が日本語になって、「料理評論家」の方たちは困惑されたのではないでしょうか。できれば、「なかったことにしたい」。本来なら、ピュドロフスキと同業者であるはずの「料理評論家」たちこそ、この翻訳に賛否両論、書評であれ、得意のブログであれ、喧々諤々と議論すべきではないでしょうか。確かに、「料理評論家」なる者は批判されてしかるべきだと訳者である筆者は思っておりますが、別にピュドロフスキの翻訳を改ざんしている訳ではありません。ピュドロフスキの本を読めば、一目瞭然であろうと筆者は思うのです。ですから、無視するのでしょう。まあ、リーファーワイン協会と同じだと申せば、協会の方々には怒られるかもしれませんが(笑)。でも、構造的は同じことです。同業者、あるいは「内輪」的には「無いものとみなす」という。
 
 しかし、ここに来て、どうもそうでもなさそうだと思えて来たのです。料理評論家ではありませんが、フランス料理関係者に会うと、結構、ピュドロフスキのことを知らないことに驚きました。ということは「無視」しているのではなく、日本の料理評論家たちは『ピュドロ』も読んだことがなければ、ピュドロフスキのことも「知らない」のではないか、と。確かに、ピュロドフスキをネットで検索するとこの翻訳の他に上位に来るのは「サダハル・アオキ」による言及です。サダハル・アオキはご存知のように、パリに店を構える日本を代表するパティシエ。つまり、パリでピュロドフスキを知らないのはモグリだということです。
これは正直、無視より由々しき事態です。「無視」ではなく、「無知」。翻訳でも参考文献に挙げている、フランスの料理学校の教科書で邦訳のあるプーラン/ネランクの『フランス料理の歴史』(角川ソフィア文庫)にも、ピュドロフスキの名はルベと共にきちんと登場しています(邦訳、326~327頁)。
 
 つまり、『ミシュラン』には一喜一憂するが、『ゴー=ミヨ』以下の格付け本は知らない。知ろうとしないのではないでしょうか。その『ミシュラン』も日本以外はどうもどうでもいいらしい。これはマスコミを含め、グルメ一般の状況かと思いきや、フランス料理関係者、さらには同業者であるはずの料理評論家自体がそうであるとは。これって、自分が何をしているかわからないのに、「料理評論家」を名乗っているのと同じことですよ、ね。さらに、レストラン側とて、評価されているのではなく、宣伝になっているのでまあいいや、ってことでしょうか。『ミシュラン』とて、匿名性をいいことに、まあ『ミシュラン』でそう言っているんだから、そうなんだろうねえ、くらいということになります。結局、誰が評価しているのかわかんないんだし……。
 
 しかし、捨てる神あれば拾う神あり。料理関係者でも拙訳を真剣に読んで下さっている方がいらっしゃるんですね。その代表が按田餃子店主の按田優子さんです。(皮肉にも)、按田餃子は『ミシュラン 東京』が餃子店をビブグルマンに掲載した最初の三店の一つで、それ以来毎年掲載され、現在に至っています。私的なエピソードは会員頁に譲りますが、按田さんは東洋大学の哲学科の卒業。その卒業論文の指導教官で主査だったのが実は筆者なのです。卒業後、パン屋さんになったはずなのですが、昨年の年明け、何気なくテレビをつけると『セブンルール』という活躍する女性を紹介する番組で、何処かで見た顔をが。按田さんではないですか。ミシュランの授賞式の映像なども流れ、彼女が代々木上原で餃子店を営んでいることを知り、連絡を取った次第。『ミシュラン 東京』は初年度から毎年買い続けているのですが、フレンチ(周辺)以外は目を通しませんので、餃子には気が付きませんでした。それ以来、ちょくちょく会って色々意見交換させていただいている次第です。
 
 つまり、筆者のフレンチを対象とした「美食批評」では餃子は対象外となるのです。しかし、按田さんの活動には興味深いものが多々あります。というのも、按田さんは「食品加工」の専門家というのが本来の肩書で、按田餃子はその思想の「一つの実践の場」と考えるのが正しいと思われます。他にも、例えば、JICAの地域開発プロジェクトに参加され、ペルーのアマゾン地帯に度々行かれています。また、文章家の按田さんは次々と著書も公刊され、最新刊の『食べつなぐレシピ』(家の光協会)を拝読させていただきました。そして、気づいたのです。筆者の「美食批評」はあくまでフランス料理を専門に扱うものとするのであれば、按田さんのような「食」に関する言説を扱う別の「方法」を考えれば良い、と。それが他ならない「食の哲学」なのではないか、と。
 
 では、何処が「哲学」なのか。もちろん、それは本の題名にある「食べつなぐ」ということにあります。それは序文にあたる「大根1本あったら、どう使いますか?」に記されていますが、表紙にも「漬ける、干す、蒸すで上手に使いきる」と手法が明示されています。しかし、ただの無駄のない節約術ではなく、「大根を手元にある資本と考えると、ただ消費するのではなくて、資本を使ってなにか新たなものを増やせることのほうが賢明」。そうすれば、「だんだん買い物の頻度が減ってきて、台所に立つ時間も減って」来る。その分、自分のしたいことに時間を割くことが出来る、従って、表紙に記された「年収200万円でも、楽しく暮らすヒントがいっぱい」のポイント、「楽しく暮らす」に行きつくのです。つまり、「食べつなぐ」ことは「楽しく暮らす」ための戦術。ミシェル・ド・セルトーのいう「日常実践のポイエティーク」に相当するわけです。
 
 しかし、筆者が注目するのはそれだけではありません。この著書の「構造」が興味深い。この本は第1章「食べつなぐルール」、第2章「食べつなぐ話」、第3章「食べつなぐレシピ」と三章からなるのですが、レシピとタイトルで謳っているにもかかわらず、最後に全130頁中30頁ほどしかレシピに割り当てられていないのです。実はその半分は第1章の「ルール」に費やされているのです。つまり、「ルール」が大事なのです。食べつなぎ、楽しく暮らすにはある「ルール」を身につけ実践出来なければならない。これはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」理論と同じです。そして、この「ルール」を「共有」できるか出来ないかがその主体の「生活世界」の在り方を決める。
 
 例えば、按田餃子に出かければすぐにわかるのですが、予約を一切受け付けないのです。満席であれば、誰であれ満席であれば、並んで順番が来るのを待たねばなりません。筆者は按田さんと一緒に何回か食べに出かけましたが、店主でさえ、並んで待つのです。これは「フレンチ」の「ルール」ではありません。予約をすること、顧客は優先すること。これがフレンチのルールです。和食でも、懐石料亭などは予約必須でしょうし、「一見さんお断り」という店もありましょう。それが「ルール」なのです。
 
 また、按田さんの場合、野菜は「2%の塩」、肉は「5%の塩」で漬けると厳密な数字が記されています。「保存袋に入れる量のキャベツの重さをはかり、2%の塩を計量する。袋にキャベツと塩を入れる」と指示も目分量を認めていません。ここから、按田さんが料理出身ではなく、製菓出身であることがわかります。製菓では、一グラムたりともその配合に狂いがあってはならないのです。そして、パンは製菓に入ります。フレンチでも格式高い店ではシェフとは別にパティシエを置くのも、料理と菓子では「流儀」が違う。実は厳密にいえば、フレンチは「ルール」の異なる二つジャンルから成る「総合芸術」とでもいうべきものなのです。
 
 こうして、按田さんの「食の哲学」は他の著書も含め、統合的に探求する必要が生じます。例えば、彼女の最初の著書は『男前ぼうろとシンデレラビスコッティ』(農文協、2010年)というお菓子の本だからです。
 
 これはあくまでラフスケッチでしかありません。しかし、このような「食の哲学」を考察することで「美食批評」は「食」の他の分野との対話をすることが可能になるのではないでしょうか。
 

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第三十七回
杜の都で美食に出会う
――ミシュラン一つ星フレンチからさば出汁ラーメンまで――

 台風十五号が首都圏を直撃した翌日、筆者は仙台へ出張することになっていました。大学の総合研究「暴力の表象空間」の一員として、東日本大震災の復興の現状を視察するためです。三十年ほど前、縁あって家庭教師をしたT氏が建築の大学院を修了後、「宮城スタジアム」などを設計した針生承一建築事務所に就職し、その後、積水ハウスの仙台支所に移られ、現在石巻・気仙沼地域の統括を担当されているので、建築の観点から復興の現在を案内して下さるという趣向です。思えば、震災が起こる半年前、ご自身の設計で青葉区に自邸を建てられたのを拝見しに行って以来の仙台行きとなりました。
 
 筆者はこの原稿を執筆中もまだ台風の影響で停電や断水が続く千葉県在住です。運よく、筆者の住む地域は停電もなく、我があばら家を含め、周囲の家屋に被害もないようでした。一睡もできないほどの不安から少々安堵するものの、今度は電車の運行状況が心配になってきました。というのも十三時台の新幹線を予約していたからです。正確に申し上げますとグランクラスを予約していたのです。昨年の台湾旅行に記した際も書かせていただいたように、筆者は旅行出かける際は移動手段、ホテルには細心の注意を払う必要があると考えています。東海道新幹線にはよく乗るものの、東海道にはないクラスの客席がJR東日本の新幹線にはあり、それがグランクラスです。飛行機で言えば、グリーン車がビジネスクラスとすれば、グランクラスはファーストクラスに相当します。一両に十八席のみでアテンダントが常駐し、軽食、飲み物等のサーヴィスが受けられます。仙台までですとグリーン車に乗るよりさらに五千円ほど高い。一度体験してみたいと清水の舞台から飛び降りる思いで購入したので、反故に出来ません。運よく、最寄り駅の路線の東葉高速鉄道は八時過ぎから動き始め、その先の東京メトロ東西線も十時には再開したと聞き、慌てて家を出た次第です。おかげさまで予約した新幹線に乗ることが出来、時刻通りの運行で仙台に着くことが出来ました。
さて、今回はまず車内で美食に出会うことが出来るはずです。実際、軽食はミシュラン二つ星を獲得したこともある(現在は星なし)、神宮前の「一凛」店主橋本幹造氏の監修なる小ぶりの弁当。「お献立」も配られました。手まり寿司二、三個にちょっとしたおかずがついたくらい。あまりの少なさにガッカリ。駅弁を手に乗り込まれた方がいて心配になりましたが、乗り慣れた方に違いないと思い直した次第です。味の方も飛行機で言えば、エコノミーの軽食と同じレヴェルと言えましょう。最近、ビジネスクラスで出かけますので、昨年のチャイナエアラインなど和食は台北のオークラ監修なので、繊細さこそないものの味はなかなかのもの。それに比べ、余りに貧弱で味も冴えません。駅弁で正解です。
 
 酒類はシードルもあったようですが、ワインは200㎖の小瓶で、赤が長野の「井筒ワイン メルロ 2018」、白が山形県の高畠ワイナリーの「嘉 スパークリング シャルドネ」でした。寿司ですし、夜に美味しい赤を飲むのでここはシャルドネに。また、東北新幹線ですので山形産のワインが相応しいかと思った次第。飲んでみるとブリュットで深みはないものの酸もはっきりと主張して悪くはありません。ただ、こなれ方にややアルコール感が強いのはシャンパーニュ方式ではないのは明らか。調べてみると、100%高畠産のシャルドネを用い炭酸ガス充填方式で作られているとのこと。納得。日本ワインを飲む機会が少ない筆者としては良い勉強になりました。
 
 ホテルは駅に直結している「ホテルメトロポリタン仙台イースト」にしました。詳しくは会員頁に書きますが20176月に開業と新しいのと予算との兼ね合いから選びました。結果としては正解だったと思います。
 
 さて、二晩あるディナーは、メインが東北で唯一、フレンチでミシュランの星を取っている「ナクレ」に出かけるので、その前哨戦はワインバーにしようと。これも旅行先が何処であれ、基本ワイン重視のフレンチに出かける筆者のスタイルを貫いてのことです。では何故ワインバーかと言えば、翌日のランチは震災の視察の途中でワインという訳にも行かず(車で移動しますので)、「ナクレ」では料理に意識が集中することになるでしょうから、ワインメインの夜にしたかったのです。そこで選んだのが仙台の繁華街「国分町」にある「ボンヌプラス」です。オーナーがソムリエ協会の支部長を務められた方だそうで、ワイン揃いがよさそうであったことと料理がアラカルトでワインのつまみのようなものを選べるのが有難かったからです。そして、ご一緒したのは今年の六月に出版された『クイアと法』(日本評論社)の編者、山形大学准教授池田弘乃先生(法哲学)です。筆者も池田先生の依頼を受け、同書に論文を執筆したもので。仙台・山形間は仙山線、高速バスで一時間ほど。筆者が自宅から大学に通うのと所用時間は変わりません。T氏と会って視察の打ち合わせをするつもりでしたが会社で用があって来られず。そこで、池田先生に声をかけたところ、大学で用を済ませて六時には着けると。T氏 に聞くと仙台から石巻に通うのと仙台・山形間は同じくらいで、通勤している人は大勢いるとのこと。ただ山越えなので冬はちょっと大変かなあ、と。
 
 ボンヌプラスはワインバーらしく照明が落とされていて、落ち着いた雰囲気の店でもちろん筆者はカウンターを予約しました。グラスシャンパーニュを飲みながら、ワインリストを頼むとリストは無く、カウンター後ろの壁にディスプレイされたセラーから選んで欲しいとのこと。なかなか見事な品揃えでブルゴーニュなど小さなアペラシオンのものなど結構置いてあるので感心しました。そこで見つけたのが、アラン・グラの「サン=ロマン ルージュ 2001年」。いくらか尋ねると12000円ですと若いソムリエ氏は即座に回答。通常のヴィンテージなら小売の三倍だなあと思いつつ、まあ年代物だし、いいだろうとこちらも即座に決定した次第。サン=ロマンはボーヌのアペラシオンでプルミエクリュがない地味な存在。グラはその代表的作り手。先日、広尾の「レギューム」でビュイッソンのサン=ロマンを飲んだので、古いものを飲んでみたい、と。また、2001年ヴィンテージは7月の大阪出張の際、「コション・ローズ」でミシェル・グロの「ヴォーヌ=ロマネ プルミエクリュ クロ・デ・レア」、その後、渋谷の「繭」でフレデリック・マニャンの「モレ=サン=ドニ プルミエクリュ ル・クロ・ボレ」を飲んでいましたので、ボーヌの同じヴィンテージがどんな感じか興味があったのです。結果としては、難しいヴィンテージなのですが予想以上に状態は良く、熟成感の中にまだしっかりした骨格が残っていて、時間が経ってもへたりを感じず最後まで美味しく飲めたのは感心しました。通好みのワインを置いてあるのは杜の都にワイン愛好家が確実に存在している証拠に違いありません。
 
 さて、翌日の昼間はT氏の車で石巻・女川の震災、そして復興に関する建築をめぐったのですが、まず出かけたのが震災のシンボルともいえる「石巻市立大川小学校」です。北上川の河口から3.7㎞も上流に位置したにもかかわらず、津波が押し寄せ、108名の児童中74名、教員10名が亡くなりました。その建物を当時のまま残しているのです。1985年に建てられた学校は当時のポストモダン建築ブームそのものの意匠で東京の有名な建築事務所の設計です。実は完成当時は河北町で、平成の市町村合併で石巻市に。その時、同時に河北町庁舎も同じ建築家が建て、そちらは川の対岸でさらに上流の飯野川地区にあり、津波は来なかったのです。現在も支所として使われているとのことでそちらも拝見することに。で、ちょうど昼時になったので、T氏が昼食は「さば出汁ラーメン」にしませんか、と。飯野川地区で昔から食べられていたそのラーメンが今流行りの「産学連携」、石巻専修大学とのコラボで全国区になり、大手メーカーからカップラーメンまで出ているとのこと。飯野川には何軒かそのラーメンを出す店があるらしいのですが、「亀鶴(きかく)食堂」が有名とのことでそちらへ伺いました。店というか街自体が時間が止まったようで平成を飛び越え昭和のままといった趣。しかし店内はほぼ満席で、老若男女、皆お目当てのラーメンに舌鼓を打っていました。筆者はめったに麺類を食しませんので、いつもながらのテイスティングになってしまったのですが、スープは塩味であっさりしていて、魚臭さを思ったほど感じませんでした。なかなかの美味です。麺は普通。チャーシューとメンマも定番。ただ、これでもかというくらい葱の刻んだものとサバのさつま揚げのトッピングが大変印象的で、さつま揚げが一番美味しかったです。後付けであろうニンニクチップが産学協同の痕跡なのかと思ったりして。その後、女川町では復興建築の「シーパルピア女川」でカフェに入ったのですがそちらは誌面の関係で、会員頁でお話ししましょう。筆者としては思わぬ「美食」に出会った視察となりました。
 
 そして、晩はT氏へのお礼も込め、東北で唯一、ミシュランで星を取っているフレンチ「ナクレ」でディネしました。場所は華やかな国分町ではなく、駅に近いアーケード商店街「クリスロード」を入ってすぐの路地を入った飲食店ビルの四階。白を基調とした明るい店内はテーブルのみで厨房は見えず。グランメゾンの趣。白が照明の関係か暖色系に感じられ、壁に花が所々飾ってあることからも女性向けの内装。実際、もう一組いた客は女性の二人組でした。客が二組だけだったのでサーヴィスについては満席時どのようなものかわからないのですが、ソムリエールが一人ですべて対応していました。あとは時折、コミが料理を運んでくるくらい。この女性が実に素晴らしい対応で、サーヴィスがおろそかな東京の星付き店にぜひ見習って欲しいものです。料理やワインの詳細はブログに批評を書きますのでそちらを参照していただきたいのですが、料理はお任せで三つコースが用意されています。真ん中の13皿の12000円のコースを選びました。シェフの緒方氏はイタリアでの修行後、パリに移り、最後にアストランスに勤めたのち、帰国されていますので、カンテサンスを頂点とする東京の主流のフレンチと同じ流れに属します。料理も低温調理など現代の手法を駆使して丁寧な仕事をされていました。皿数が多いので、メインの仙台牛や魚料理のポーションをしっかりめにし、あとは小さめに、デセールが数皿出るといった感じ。東京の星付き店と遜色のない納得の出来でした。惜しむらくはワインリストがなく、ペアリングを主に考えておられるようでグラス売りが中心になってしまっていたこと。ブテイユは小売価格の三倍強でなかなか手が出るものがありませんでした。前日のボンヌプラスといい、仙台はワインを小売価格の三倍で提供するのが店での常識なのか、と。東京は二倍くらいが相場なのでちょっとお高いか、と。しかし、これもソムリエールの粋な計らいで三分の二くらい残ったショーヴネ・ショパンのニュイ=サン=ジョルジュをボトル買いするなどで破格の安さで提供していただけました。ここでもサーヴィスの臨機応変の対応次第で、食事の印象がまったく変わってしまうことが実感された次第です。仙台を訪れた際は是非また訪れたいと思えたのですから。
 
 ワインの価格など課題もあるようには思いましたが、仙台もフレンチ・ワインと筆者の説く「美食」に相応しい都市であることを実感でき、嬉しく思った旅でした。
 

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第三十八回
「ワインリスト」
――その存在の必要性と読解の手引き――

 前回、仙台でのワインとの出会いの話を書かせていただいたのですが、たまたま訪れたタイプの違う二店共にワインリストがなく、価格も小売の三倍だったことから、「ワインリスト」について書いておく必要があるのでは、と思った次第です。
 
 まず、価格に関して述べておきましょう。これはご存知の方も多いかと思いますが、外食の場合、居酒屋であれ、高級レストランであれ、ワインは小売価格の二倍から三倍というのが相場です。さらに、よく言われるのは、街場が二倍でグランメゾンやホテルは三倍である、と。ですので、前回の場合、「ナクレ」が三倍なのはそのせいかと言われれば、東京では一つ星クラスでは二倍が普通ですので、一概にそうとは言えないのです。また、居酒屋などで3000円くらいで出しているのは、せいぜい1000円前後のものですのでこれも三倍。つまり、価格帯によっても違います。安いワインは三倍でもそれほど利益が出ません。小売5000円のワインを一万円で売れば、5000円の利益です。しかも、卸で買っているのですから、5000円からさらにディスカウントされて買っている訳です。
 
 昔と違って、今はレストランにだけ卸すインポーターはほとんどありません(出水などはまだそうかもしれませんが)。ですので、スマホで調べれば楽天でいくらで売られているか、だいたいすぐわかります。アプリによっては、エチケットの写メを取ると、食べログのような一般からのコメントと点数、さらに小売価格が表示されるものもあります。評価はさておき、価格はやはり楽天でいくらで売られているかを参考にされると良いでしょう。大多数のワインが複数のワインショップで売られていますので相場がつかめます。
 
 従って、ビストロであれ、グランメゾンであれ、ボルドーやブルゴーニュを飲もうとしたら、10000円は覚悟する必要があるということです。そして、まずはこの一万円で何が飲めるか、ワインリストで確かめるのがコツなのです。仙台の「ナクレ」では、ルフレーヴのブルゴーニュでした。大阪の「コション・ローズ」ではルブルソーのジュヴレ・シャンベルタンが飲めたのです。これが67000円では何処でもACブルゴーニュどまりです。また、高級店でも一万円切るくらいを下限としているのが通例です。そこで、リストの一番安いワインははずすというのもセオリーで、何本か飲む場合、安い方から二番目から始めると良いでしょう。ずいぶん昔ですが、筆者は銀座の「ロオジェ」が今の場所に移転してすぐ出かけたことがあります。ジャック・ボリー氏がシェフでした。人数がまあまあ多く、頼みもしないのに個室に通され、まあそれはいいとして。当時はボルドーオンリーでしたので、一本目に下から二本目の9000円代だったと思いますが、サン=テステフのブルジョワ級のワインから始めました。「ペズ」系だったと思います。
 
 つまり、その店のワインの価格傾向を知るためにも「ワインリスト」は必須です。確かに仙台の「ボンヌプラス」のようにリストがなくとも、カウンター後ろのセラーに陳列されていてそこから選ぶのも一興か、と。しかし、その場合、薄暗い中でエチケットを読んでワインの銘柄等を確認し、その度にソムリエ氏に「これはいくらですか」と尋ねる必要が生じます。リストがあれば、それに目を通すだけで充分ではありませんか。
 
 そう、よく「色々飲んでもワインがわからない」と言われる方がいらっしゃいます。それは「自分で選んでいない」からに他なりません。いや、ソムリエ氏に「重い」のがよいとか。「フルーティーな」ものとか自分の好みをきちんと伝えているとおっしゃられるかしれません。しかし、結局それもソムリエ頼みではありませんか。いつ頃からか、「専門家のソムリエに頼めば確かである」などというのが常識のようになっていますが「ワインがわかりたい」のであれば、それはやめるべきです。いくらソムリエ氏がワインに詳しかろうと、あなたの味覚は究極的にあなた自身にしかわかりません。「重い」と言われてもローヌのシラーなのか、ボルドーでもメドック派なのかそれともリブールヌなのか。グラスで頼んだ場合には開いているものの中から「重い」のを出すのですから、おのずと限界があります。また、ソムリエ氏はボランティアではありません。あくまで「商売」としてワインを扱うプロです。よく「ソムリエを味方に」と言いますが、それはあくまでソムリエとの「駆け引き」の中であなたが「味方につける」よう優位に立ってこそ可能なのです。そのためにも、「自分で選ぶ」ということが大前提になります。そして、それには「ワインリスト」を読み解くことが必須となるのです。
 
 従って、昨今の「ワインペアリング」というのは客に親切なようでいて、実は客が主体的にワインに関わることを阻害する非常に由々しきシステムであると言えましょう。料理とワインのマリアージュは本来、客が自分で食べたいものを決めそれにあったワインを選ぶ。また、その逆で、今日はこのワインが是非飲みたいのでそれに合う料理で自分が食べたいのは何かなあ、というのが当たり前の姿でしょう。それが昨今はお任せと称して、料理人が自分の得意な料理だけ並べてそれぞれの客が何を食べたいかまったく考慮しない。即ち、「客一般」、あるいはシェフが勝手に想定する「客」なるものを相手にしているだけで、目の前にいる客一人一人を無視している。ペアリングという方式は、まさにワインもそれに同調するだけで、まったく客の「個性」を無視しているのです。
 
 よく考えてみれば、すぐわかることです。ある料理に合うワインがその店に一種類しか存在しないとしたら、それは相当ワイン揃えの悪い店としか言いようがありません。だいたい、ある料理に合うワインが一種類というのもおかしな話です。仔羊のソテーに合うのはボルドーだけでしょうか。そんなことはありません。ブルゴーニュでも、ローヌでも、イタリアにもスペインにも赤であれば、よく合うワインはあるはずです。いや、白ワイン愛好家であれば、白で合うワインを言い当てることも出来るはずです。テストの回答ではないのですから、ソムリエが出すグラスワインは正解の一つに過ぎません。しかも、ペアリングに用いるワインはそれほど高いものではありません。仙台の「ナクレ」で、筆者がグラスシャンパーニュに「ジャクソン デゴルジュマン・タルディフ 2000」などという一本五万円以上する最高級品を出されたのは奇跡に近い出来事で、それが当たり前であるはずがありません。ベストではないのはもとより、ベターであれば上出来と言えましょう。
 
 そして、グラスワインの場合、いつボトルを開けたのか、一口飲んでわかる客というのはそれこそソムリエ以上の舌の持ち主ではないでしょうか。あなたはペアリングを頼んだ際、それぞれのグラスがいつ開けられたボトルのものかをソムリエ氏にお尋ねになっているでしょうか。「ワインがわかりたい」のであれば、それを尋ねることは必須です。「ナクレ」の優秀なるソムリエール嬢はニュイ=サン=ジョルジュの抜栓が二日前で、ムルソーは新しく開けるとはっきりこちらから尋ねずとも教えてくれました。それが面倒だというのなら、躊躇せず、「ワインリスト」を頼み、そこから飲みたいワインを選ぶべきです。そして、その際必要なら、ソムリエ氏を呼んで、値段、好みなどを伝えてワイン選びを手伝ってもらえば良いのです。抜栓したてから時間の経過と共にワインがどのように変化するのかを逐一確認することが出来ます。学習とは「試行錯誤」であるというのが学習心理学の定説です(スキナー学説)。「ペアリング」のような人任せで主体的な思考停止状態では、いつまでたっても「ワインがわかる」はずがないのです。どうしてもグラスワインに頼らざるを得ないなら、それよりもっと良い相性のワインがあるという前提で飲むこと。そして、それは何かを後に自分で探すこと。また、ボトルはいつ開けられたかを必ずソムリエに聞くことです。
さて、「ワインリスト」は「読む」ものです。つまり、読解力が試される。読むに値する「リスト」には三つのタイプがあると言えます。
 
 まず、思い浮かぶのが「分厚い立派なリスト」。以前、ホテルのメインダイニングやグランメゾンで見られたタイプのものです。フレンチであれば、ボルドー、ブルゴーニュがそれぞれの村別に何種類ものワインが手ごろな価格から銘酒まで並んでいる。残念ながらこのご時世、ワインを保管するのは多大なコストがかかります。ホテルでも見かけなくなりました。最近、筆者が見たのは赤坂の「シュマン」、丸の内の高級イタリアン「アンティカ・オステリア・デル・ポンテ」。そして、昨年、台北でアンバサダーホテルの「A Cut ステーキハウス」くらいでしょうか。これらは簡単で、まずボルドーならボルドーに決めます。そして、あの「一万円」ルール。それぞれの村(例えば、マルゴー)の安い方から二本目くらいのワインを基準の価格にします。同じ価格帯で選択肢は多いはずですから、どの村が良いかはお好みで。迷ったら、ソムリエに価格帯を示して、好みを伝えて選ぶのを手伝ってもらいましょう。
 
 次に、筆者の贔屓にしている元代々木「シャントレル」など一つ星クラスに多い、個人がオーナーの店でオーナーの好みのワインに特化しているケース。シャントレルの中田シェフはもとより、古くは六本木「コジト」の山田シェフなど、ブルゴーニュ愛好家が多い気がします。青山の「オルグイユ」のようにシャンパーニュ地方のワインしか置いていない店などもあります。リストは偏っていますが、ブルゴーニュであれば、その品揃えは立派なリストですので、その中から「一万円」ルールで選んで行けば良いでしょう。ブルゴーニュ赤の場合、ボーヌの方がニュイより低価格でいろいろ楽しめることなどリストを見れば一目瞭然のはず。
 
 最後に、大阪の「ベニエ」などに見られるボルドー、ブルゴーニュからワールドワイドに様々な国のワインを集めたリスト。これは自分の飲みたいワインがすぐ見つかるものの、リストに一種類か二種類くらいしかないので、「一万円」ルールで価格帯などピッタリ来ない場合などあります。その場合は「一万円」ルールを最優先し、その価格帯で何か探すことをお薦めします。
 
 つまり、現在日本のレストランでワインリストから選ぶなら、「一万円」を基準にしてワイン選びをすれば、間違いはないということです。
 

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第三十九回
「テイスティング」
――自分好みの味わいを見つけ出すために――

 単刀直入に、皆さんにこうお尋ねしたい。「何のためにテイスティングをするのでしょうか?」、と。多くの方が「ワインが傷んでいないか確認するため(コンディションの判定)。そして、葡萄品種による違いを認識するため(セパージュの判別)」とでもお答えになるのではないかと思うのです。しかし、これらはテイスティングを実践する上での達成目標とでもいうべきことで、テイスティングする「理由」ではありません。実際、筆者が推奨するテイスティングの参考文献、佐藤陽一『ワインテイスティング』(ミュゼ、2009年)で、著者は冒頭、「ワインのテイスティングとは」という項目を立て書き始めるも、「ワインのテイスティング(デギュスタシオン)とは何をするのか、なぜそれを行うのかにはいろいろな目的があります。ワインの初心者から上級者に至るまでレベルに応じたテイスティングが存在します」(12頁)と、「なぜそれを行なうのか」については「いろいろな目的」があるとして一切具体的な回答を行なっておりません。しかも、何をするのかにも「いろいろな目的がある」はずで、明確な規定がない。しかし、実際のところ、当該の本はその「何をするのか」がその後に詳細に言及されるという、一見したところ極めて矛盾した展開を見せるのです。
 
 しかし、さらに遡って「はじめに」を読むとその疑念がある程度晴れるかと思います。そこでは「テイスティングの言葉や方法、考え方などを、ソムリエの視点からまとめてみることにしました」(3頁)と書かれているからです。つまり、「何をするのか」について、「ソムリエの視点から」体系的にまとめたのが佐藤氏の『ワインテイスティング』ということになります。そして、本を書いた「目的」は「あとがき」に垣間見えます。元々調理場志望だった著者は人がいないとのことでサーヴィスに回され、当時教えてくれる人も調べる術もなかったので、「結局わからないままサービスしていた記憶がある」。知識に関してはネットで容易に調べることが出来るようになったが、「感応表現に関してはまだ、参考になる資料や文献は少ないように思う」(246頁)ので本書を執筆したようです。
 
 つまり、佐藤氏の著書はワインのサーヴィスつまりソムリエに向けて書かれたものであることがわかります。それは著者も認めるように「いろいろな目的」の一つであって、「すべて」ではありません。実際、その後展開される詳細なテイスティング技術の指南は冒頭に筆者が挙げた二つの達成目標の後者、セパージュの判別に特化されているのです。「感応表現」とはセパージュ別の感応表現に他なりません。佐藤氏はテイスティングに四つの行程を提示しています(13)。それは「外観を観る」→「香りを感じる」→「味わいを確認する」→「判断する」です。そして、コンディションの判定については、「外観の最終判断は健全性の判断とも言えます」(29頁)として、第一段階で完了したものとみなし、その後の過程でコンディション判定については一切記述がありません。
 
 しかし、筆者はテイスティング技術の達成目標としては、セパージュの判別よりもコンディションの判定の方がはるかに普遍性があると考えます。というのも、ワインが傷んでいないか否かはソムリエだけでなく、ワインを口にする者なら「誰も」がわかっていなければならないことではないでしょうか。そもそも、ワインが傷んでいる、即ちコンディションが不良であるとはどのようなことでしょうか。多くの場合、「ブショネ」と一括して言われてしまう状態です。実際、今年の六月、筆者のワイン仲間恒例の泊りがけのワイン会で三本の銘酒がブショネとされました。どれも数万円するワインです。確かにこの三本はコンディションに問題があるかと思いました。しかし、それぞれ違った原因から不良と筆者は判定しました。まず、2004年のシャトー・フィジャックは「熱劣化」ではないかと判断しました。リーファーコンテナで輸送したものと思われますが、別の輸送あるいは保存の段階で熱が加わったのではないか、と。とうのも、味に熱で傷んだ独特の嫌な後味が感じられたからです。
 
 次に1992年のラトリシエール・シャンベルタンですがこれがまさしく「ブショネ」、コルク(ブション)に問題がある場合です。通常はコルクにカビが発生してその匂いがワインに移ってしまうと考えられます。しかし、逆にコルクにカビが生えないよう化学物質で消毒した後、洗浄不足で残存したそのケミカルな要素がワインに移ってしまうという場合もあると教わりました。このラトリシエールはカビの方と判断しました。というのも、持参した方が同じワインを複数所持され、依然飲んだものと味が違うとおっしゃったからです。そして、最後に1981年のシャトー・デュクリュ・ボカイユですが、これは「経年劣化」と判断しました。保存も完璧でなかったのでしょうが峠を越したワインの味わいでした。
 
 このように、通常「ブショネ」と片付けてしまうコンディションの不良にも、おおまかに「熱劣化」、コルクに問題ありの狭義の「ブショネ」、そして「経年劣化」の三種類があると考えられます。こうしたコンディションの判定は誰もが日常的に行なう必要があります。リーファーワイン協会がコンディションの判定を主眼においたワインの啓蒙を行なうのも、極東の地日本でワインを飲む際にどうしてもコンディションが万全ではない場合が多々生じるからに他なりません。協会の理事として、コンディション判定を基礎に置くテイスティングの基本を「リーファーアンバサダー」の講習で展開し、さらに上位の「タストヴァン=利き酒」にまで展開したく思っております。タストヴァンはワイン愛好家であれば、どのような者であれ挑戦できるものにしたい。実際、例えば、パーカーは弁護士であって、ソムリエといった特定の「職業の資格」とは無縁ながら、当代きってのワインテイスターの一人となっているのです。
 
 では、上級の「タストヴァン」に必要なのがかの「セパージュ判別」なのかと言えば、筆者はそう考えておりません。セパージュ判別は実際にワインを飲む際、適切な判別方式かと言えばそうでもないからです。確かにピノ・ノワール=ブルゴーニュという一対一対応は存在します。しかし、例えば、「カベルネ・ソーヴィニヨン」。この葡萄品種は元来、ボルドーワインを構成する品種として世界中へと波及していきました。しかし、ボルドーワインはまず、カベルネを主とする「メドック」とメルロ中心の「リブールヌ」の二つのタイプに分かれます。さらに、「メドック」ワインもカベルネ・ソーヴィニヨン100%から成るものは皆無に等しい(例えば、メルロが不作だった1984年のムートンはソーヴィニヨン100%だったと言われていますが噂の域を出ておりません)。カベルネ・ソーヴィニヨン、カベルネ・フラン、メルロを主とし、プティ=ヴェルド、マルベックを補助品種としてスパイス的に用いる。即ち、数種の葡萄を混合したもので、その割合もシャトーごとに異なっており、もちろん各シャトーとも各年でその比率は変わっています。「リブールヌ」のメルロも然り。メルロ100%のワインも増えておりますがまだ少数です。
 
 これはローヌの赤ワインの主たる品種シラーも然り。シラー100%はコート・ロティ、エルミタージュなど一部のアペラシオンだけで、主たるコート・デュ・ローヌなどはグルナッシュなど他の葡萄が混合されており、その最たるものが十三種類まで混合可能なシャトーヌフ=デュ=パープです。イタリアワインもピエモンテ地方のバローロ/バルバレスコ=ネッビオーロですが、トスカーナのキャンティのサンジョヴェーゼ種は、モンタルチーノではブルネロ、ヴィーノ=ノビレではプルニョロ・ジェンティーレとサンジョヴェーゼの亜種から作られており、サンジョヴェーゼと一言で片づける訳にはいかないのです。
 
 つまり、実際に飲むワインはボルドー、ブルゴーニュ、ローヌといった産地別のものであり、筆者は「タストヴァン」では、この違いを判別できる感応能力を評価すべきと考えます。つまり、飲んだ瞬間にまずこれは「ボルドー」だと判別し、さらにソーヴィニヨン主体である=メドックかグラーヴの可能性大、さらに色・味覚等から例えばAC「マルゴー」ではないかといった判別に進行し、最終的に「シャトー・マルゴー」であるというところまで行くこともあり得るのではないか、と。
 
 事実、佐藤氏のカベルネ・ソーヴニヨンの例としてボルドーから挙げられているのはグラーヴ(正確にはACペサック=レオニャン)のシャトー・ド・フューザルですが、ペパーコーンの『ボルドー・ワイン第二版』(早川書店、2006年)では、ソーヴィニヨン60%、メルロ33%、プティ・ヴェルド2.5%、カベルネ・フラン4.5%とあります。他のニューワールドのソーヴィニヨンは100%ながら、肝心のボルドーだけそうではないのです(202203頁)。セパージュ別のテイスティングのワインにフューザルは不適切なのです。 では、何故セパージュ別の判別が必要なのか。これは端的に「ソムリエ試験に出るから」ではないでしょうか。ここで冒頭の佐藤氏が「ソムリエの視点」でと断り書きをした理由が判明します。ただし、それがいつの間にかあたかも「テイスティングの基本」のように扱われ、読者一般もそう錯覚してしまっているのが現状ではないでしょうか。
 
 つまり、テイスティング能力を磨く理由、それはこの項の副題にあるように「自分好みの味わいを見つけ出すために」に尽きると筆者は考えます。自分がこのワインが美味しいと心から真に言えるためにはまず、コンディションの是非が大前提になります。そしてさらに、ボルドー、ブルゴーニュなど産地、白ワインであれば、例えば、「アルザス」ワインという判別がまず第一に来るのではないでしょうか。そこには結果的に同じリースリングでもアルザスのリースリングにより美味しさを見出すという判別です。そして、そこからドイツのリースリングとの違いやどこがアルザスの魅力なのかを分析して行く。実際、ボルドーワイン愛好家は多々いれど、カベルネ・ソーヴィニヨン愛好家はいるでしょうか。いたとしたら、ボルドーワインは除外されてしまうでしょう。ボルドー愛好家はあの混合されたそのブレンドの妙を味わうのであり、またソーヴィニヨン主体のワインとメルロ主体のワインそれぞれの魅力を判別しているのです。セパージュ別の判別を繰り返している限り、ボルドーワインのテイスティング能力はまったく養われないと言って過言ではありません。
 
 正しいテイスティングは自分好みのワインを見出すために必要であり、好みのワインを見つけ出すことは正しいテイスティング能力を身に着けることと同じと考えてよいのです。だからこそ、奥が深くその探究心は飽くなきものとなる。ソムリエ一般のように利害関心で動くのではなく、純粋にワインを愛する者は誰であれ、厳しく曇りのないテイスティング能力を必要とするのです。
 

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第四十回
『ミシュラン』と「食べログ」
――フードジャーナリズムの批評性――

 飲食業界のいや、日本中で年末恒例の話題として『ミシュラン』の次年度版の結果が取り沙汰されるようになって、十年が過ぎようとしています。そして、その勢いは衰えることがないように思います。筆者が懇意にしている按田優子さんの「按田餃子」、さらには中田雄介シェフの「シャントレル」もそれぞれ、ビブグルマン、一つ星を維持することになりました。喜ばしいことです。そして、11月も下旬のある日、按田さんから『ミシュラン』の授賞式に同席してくれないかとのメールをいただきました。「按田餃子」には按田さんともう一人共同経営者の方がいらして、招待状が二枚届くそうです。その共同経営者の方がお仕事で出席できなくなったそうでピンチヒッターとして筆者に声がかかった次第です。平日の14時から16時まで東京プリンスホテルで行われるとのこと。なるほど、レストランがランチとディナーの間の休憩時間に行なうのかと納得した次第。受賞パーティーなので、てっきりアフターファイヴに盛大に行なわれるのかと思いきや、確かに飲食店は夜が書き入れ時なのでパーティーどころでないか、と。そう言えば、業者向けのワインの試飲会も同時刻に行なわれることが多いのを思い出しました。
 
 またとない機会なので伺いたかったのですが、大学の授業と重なり泣く泣く辞退させていただきました。実は授賞式の数日前、「シャントレル」にランチに出かけた際、中田シェフから放送中の木村拓哉さん主演のドラマ『グランメゾン東京』の撮影が入るらしいとの話も聞いていましたのでなおさらです。筆者はこのドラマを観ておりませんが(その理由等は会員用でお話させていただきます)、どのような撮影が入るのかには関心があったからです。
 
 授賞式を終えた按田さんが筆者の「嵐」の講義を聴講に明大前の和泉校舎まで来て下さいましたので、終わった後、神泉のビストロ・パルタジェに一緒に出掛け祝杯をあげた次第です。どのような様子なのか按田さんに尋ねると、テタンジェで乾杯して、料理などはほとんどないとのこと。すごい人だったらしく、シャントレルの中田さんと話したと聞くと、随分離れた場所にいらっしゃったので姿は確認できたけれど、そこまで移動する気にならなかったと何とも按田さんらしい答えが。さらに『グランメゾン東京』の撮影は入っていたらしいのですが、俳優などが来ている風ではなかった、と。日本を代表する三つ星フレンチシェフ、「カンテサンス」の岸田シェフが取材されていたのがそれではないかと教えて下さいました。あと、最初の頃はお土産とかをくれたけれど最近は何もなしとも。まあ、毎年改定を重ねるのも大変ですし、このSNSの時代に、毎年書籍のガイド本を買う人がどれだけいるのかは疑問です。一冊3500円という値段がそれを表わしているのではないでしょうか。
 
 実際、フランスでもすでに書きましたように、パリのレストランガイド『ルベ』はこれまで通常のガイドとビストロに特化した『ルベ・ビストロ』の二種類を公刊していましたが今年から合本となりました。また、筆者がその著作を邦訳したピュロドウスキが主幹の『ピュドロ・パリ』は2019年版が出ず、先日『ピュドロ・パリ 2020』が同じミシェル・ラフォン社から若干の表紙等の装丁を変えて出版されました。毎年ではなく、隔年になる可能性があります。ただし、今回は1990年の創刊から三十周年というミレニアムイヤーということもあり、そのための特例とも考えられます。いずれにせよ、これを機に書籍に関しては見直しが図られることと思います。これにはすでに、ピュロドウスキが美食批評家としての研鑽を積んだ『ゴー=ミヨ』がフランス全国版は毎年発売されているものの、パリ版は2017年から隔年になっているという先例があります。ここから察するに『ゴー=ミヨ』日本版の動向が気になります。
 
 もちろん、『ミシュラン』は紙媒体だけに特化している訳ではなく、すでに2015年から「ぐるなび」と提携し、「ミシュランガイド・デジタル」から「クラブミシュラン」にリニューアルし。有料会員を募って情報を提供して来ました。さらに、201810月には「ぐるなび」からミシュラン掲載店のネット予約が可能となったのです。ただし、「ぐるなび」との提携は手放しで喜ぶわけにはいかないと思われます。というのは、『ミシュラン』は星を付けるといったレストランを評価する本です。単なる紹介や宣伝のための雑誌の記事などとは異なります。他の媒体からの影響を受けることなく、「独立し独自の基準で」客観的に評価する必要があるのです。例えば、『ミシュラン』はどのようにして店を選ぶのかはよく取り沙汰される疑問です。本来なら、都内にあるフレンチ「すべて」をリサーチし、その中からしかるべく格付けすべきでしょうがどうもそうしている風ではない。最初からある程度目星をつけて候補となる店を選んで調査しているらしいのです。とすれば、その候補は誰が選んでいるのでしょう。それが「ぐるなび」からの情報だったとしたら、厳密にいえば『ミシュラン』独自の調査でないことになります。
 
 そうした危惧を覚えるのは、「ぐるなび」と並ぶグルメサイト「食べログ」に関するある報道がされていたのを目にしたからです。それは「食べログ」の五点満点の評価が多くの人の店の選考基準になっていること。それに目を付けた業者が点数を操作する商売を始めたり、さらにそれを詐欺のネタにさえする状況が存するとのこと。また、点数に納得いかなかったり、書かれたコメントが根も葉もない嘘であった場合、店の掲載そのものを拒否しても、店の住所や電話番号などの情報を公開している限り、掲載を削除することは出来ないと返答され困っている店の話などでした。つまり、「食べログ」の点数やコメントはどこまで妥当なのかは意外にも不透明なのです。こうして『ミシュラン』もまた、いくら候補とはいえ、自ら調査したのではない情報をもとに店を選択することは最初にボタンを掛け違える可能性があるということになりはしないでしょうか。
 
 もちろん、『ミシュラン』そのものは掲載拒否を容認しています。古くはパリの名店「マキシム」が評価に納得せず、掲載を拒否し、ガイドから姿を消したのは有名な話です。そして、『ミシュラン 東京 2020』で最も話題となったのは、あの三つ星の寿司の名店「すきやばし次郎」がガイドから姿を消したことでした。このニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、大きな衝撃を与えたのです。ただし、星を取れなかったのではなく、「掲載辞退」というのが本当のところだったようです。そして、その理由は予約を取るのが困難で、一般客の来店が困難になったということらしいのです。それが「ぐるなび」からのネット予約が出来ないということと関連があるかは定かではありませんが、いわゆる京都の一流料亭のような一見さんお断りのような状態なのではないでしょうか。東京風に言えば、紹介制でもなかなか予約が取れないということでしょう。
 
 筆者は「寿司」というよりとりわけ「すきやばし次郎」の「寿司」は少なくともガストロノミという意味での「美食」ではないと考えます。座った途端に目の前に寿司が出され、それをすぐ食さなければならない。お任せで二十分ほどで食べ終え、店を退散する際は数万円を支払う。トイレは店を出て、ビルの共用トイレを使用。これらは少なくとも「三つ星」に相当するレストランとは言い難いものがあります。もちろん、筆者は寿司が出された瞬間からネタが劣化するのである限り、即座に食することが正しい食べ方であることを認めます。従って、二十分ほどで食事が終わるのも必然。店構えが質素なのも元来「寿司」がファストフードであった歴史的経緯からも納得いくのです。つまり、筆者は小野次郎氏の「寿司美学」には大いに敬意を表する者です。ただし、これは時空に適正なお金を支払うことを旨とする「ガストロノミ」とは元々のコンセプトが異なります。調度一つにも心配りをし、ワインを時間をかけてその変化を堪能し、会話を楽しみながら食事を享受する。もちろん、料亭での懐石料理のように「ガストロノミ」と同じような発想の食事も「和食」にも存在しますし、同じ「寿司」でも「久兵衛」のような店は「ガストロノミ」に近い形態ではないでしょうか。従って、「すきやばし次郎」が消えたのはある意味、『ミシュラン』にとって正しい姿ではないか、と筆者は考えるのです。
 
 このように、『ミシュラン』と「食べログ」は同じレストラン評価を行なうにせよ、その理念といったものが異なると筆者は考えます。「食べログ」は一般ユーザーの評価を記載することで正しい評価を行っていると考えるのでしょう。しかし、その客観性は本当に担保されているでしょうか。インフルエンサーのようなタダで食事をして、その上、インスタグラムをアップすることでお金までもらうという職業?も存在します。男子中学生の将来なりたい職業の第一位は「ユーチューバー」というのが現在の日本の姿です。これは「フードライター」という肩書とも通底していないでしょうか。あくまである特定の食(品)の普及、店の宣伝を行なうのが目的であり、「批評」するのではない。本来、食に関して「真実」の報道を行なうのは「フードジャーナリスト」であるべきです。もちろん、日本の場合、「ジャーナリスト」を名乗る者が時の政権のデマゴーガーだったりしますので、きちんと見極める必要はあるものの「フードジャーナリスト」を名乗る者が出てしかるべきだ、と。
 
 というのも、ピュドロウキもまた、「美食批評家」を名乗る前、その出発点はジャーナリストだったからです。彼はパリ政治学院を出て、週刊『ヌーヴェル・リテレール』誌の記者になります。「そこで暇つぶしの道楽にしか見えない美食批評を揶揄していた」(『ピュドロさん、美食批評家は何の役に立つのですか?』邦訳、23頁)。そんな彼が「天職」と自ら認ずる「美食批評家」になる過程は拙訳をお読みいただくとして、「美食批評家」はあくまで新聞や雑誌に連載をもったり寄稿する媒体そのものからは独立したいわゆる「作家」であるのに対し、記者として「食」について記するのが「フードジャーナリスト」と言えましょう。ちなみに、ピュドロウスキはジャーナリストとは言わず、「時評担当者(クロニクール croniqueur)」と呼んでいます。新聞や雑誌が日々刻々と変わる「出来事=事件」を報道するという側面(ジュルナル journal、フランス語でジュールは「一日」の意)に加え、やはりそこに何らかの「批評性」をさらに見出そうとするのが「クロニクール」ではないでしょうか。いずれにせよ、食に関しても「批評家」、「クロニクール(としてのジャーナリスト)」が確立しない限り、国が亡びるように、食の未来もまたないと言うことが出来るでしょう。

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目次

著者Profile

関 修(せき おさむ)

フランス現代思想
文化論
(主にセクシュアリティ精神分析理論/ポピュラーカルチャースタディ)
現在、明治大学法学部非常勤講師。
2014年、明治大学で行われた「嵐のPVを見るだけの授業」が話題となった。
 

経歴

1980年:千葉県立船橋高等学校卒業
1984年:千葉大学教育学部卒業 
1990年:東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程単位取得満期退学、東洋大学文学部非常勤講師 
1992年:東洋大学文学部哲学科助手
1994年:明治大学法学部非常勤講師  、他に、岩手大学、専修大学、日本工業大学などで非常勤講師を務める 
 

著書

『挑発するセクシュアリティ』(編著、新泉社)
『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』(編著、夏目書房)
『美男論序説』(夏目書房)
『隣の嵐くん~カリスマなき時代の偶像』(サイゾー)
『「嵐」的、あまりに「嵐」的な』(サイゾー)
 

翻訳[編集]

G・オッカンガム『ホモセクシュアルな欲望』(学陽書房,1993年)
R・サミュエルズ『哲学による精神分析入門』(夏目書房,2005年)
M・フェルステル『欲望の思考』(富士書店,2009年)
 

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