美食批評への誘い  Vol.61~65

クリティーク・ガストロノミック

 
フランス現代思想家

関  修(せき おさむ)

第六十一回
松本・諏訪への旅
――信州ワインと信州ガストロノミー――

 筆者は毎年、九月初めに二泊三日の旅行に出かけるのを常としています。近場の外国に行くのが理想ですが昨年はコロナ禍で海外に行けませんでしたので、亡き両親の実家のある静岡市を旅することにしました。父が転勤商売だったため、筆者は静岡市に住んだことがなかったからです。また、『ゴ・エ・ミヨ』日本版で静岡市内に「カワサキ」という優れたフレンチが開店したことを知り、是非とも訪れたいと思ったからです。これらにつきましては昨年書かせていただきました。そして、その際行きそびれてしまった島田の「ラーメン ル・デッサン」、そして映画『メゾン・ド・ヒミコ』のロケ地となった御前崎の「カフェ・ウエルカムティ」だった建物への訪問をこの五月に「カワサキ」の再訪と共に叶えることが出来たのでした。そして、この件も記事にさせていただきました。
 
 静岡行きが決まった時点で今年の九月こそは海外にと思い、新学期が始まる直前、ソウルのホテルに予約を入れました。その頃にはコロナも一段落し、オリンピックが開催され、海外渡航も可能になっているのではないかと考えたからです。ところがいっこうに感染状況は好転せず、それどころか悪化の一途をたどるように思える状況になりました。そこで、静岡から帰るとソウルを諦め、今年も国内旅行にしようと予定変更することに。そして、昨年が住んだことはないものの筆者のルーツと言える静岡への旅の続きとして、筆者が三歳から十歳までの七年間の幼少期を過ごした長野県の諏訪への旅をすぐ思いついたのです。
 
 というのも、五月に「カワサキ」を再訪する際、その直前に『ディスカヴァー・ジャパン』誌2021年五月号に「カワサキ」が犬養裕美子氏によって再び取り上げられたのですが、同号の特集で松本の「松本十帖」がこの五月にグランドオープンした記事が八頁にわたり掲載されていたからです。すでにブックホテル「松本本箱」の開業は知っていて一度訪れてみたかったのですが、メインダイニングでふるまわれるコペンハーゲンの三つ星「ノーマ」の影響を受けたクリストファー・ホートン氏が監修する「信州ガストロノミー」の詳細を知り、これは訪問しない手はないと松本での一泊、そして諏訪での一泊の旅を決めました。では、諏訪はどこに泊まろうかと探したところ。こちらもこの四月に諏訪湖畔にグランドオープンしたばかりの「かたくらシルクホテル」で「創作信州フレンチ」が食せることがわかり、六月初めに両ホテルを早速予約した次第です。
 
 オリンピックの開催は議論されることもなく既成の事実として挙行されたのですが、感染状況は悪化するばかりで、オリンピックが終わってもパラリンピックが続いて開催されるので都市圏のみならず、静岡県のような他の多くの県にも緊急事態宣言が発令されることになりました。そんな中で長野県は国レヴェルでは何の措置の対象ともならず、大手を振ってワインを飲むことが出来たのでした。これは偶然とは言え、不幸中の幸いでした。
 
 さて、今回の旅の場合、どちらも宿泊するホテルでディナーも摂るパターンです。この場合、食事だけでなく、泊まる部屋、ひいてはホテル全体のホスピタリティが評価に値するクオリティに達しているかが問われます。これは「レストランの正三角形」のレストランをホテルに置き換えれば一目瞭然です。つまり、レストランでのサーヴィスをホテル全体のサーヴィスと考えればよいのです。そして、両ホテル共に食事は「信州」と銘打った美食、そして結果的にワインリストもすべて「信州ワイン」とどちらも「信州」づくしだったという訳です。公開用では両ホテルの「ホテルの正三角形」を検証してみたいと思います。
 
 「松本十帖」は浅間温泉街にあるリノべーションした旅館をべースとした複合施設でホテルも部屋にテレビのないブックホテル「松本本箱」とファミリー向きの「小柳」と二つに分かれ、それぞれにダイニングが付設されています。浅間温泉は子供の頃、両親に連れられて訪れたことがあったので今回の旅に相応しい場所でもありました。車での移動にアクシデントがあり、「松本十帖」に到着したのはディナー開始時間ギリギリの夜七時半頃になってしまいました。浅間温泉郷は迷路のような狭い路地に多くの旅館がひしめくように軒を並べる風情で、駐車場もホテルにはなく、温泉郷の入り口近くの「十帖」の施設の一つ、カフェ「おやきと、コーヒー」の駐車場を利用し、このカフェがレセプションにもなっているのです。日本全国のほとんどが緊急事態宣言下、あいにくの雨模様、夜八時近くの温泉郷は暗闇の中にひっそりとあり、誰も外を歩く者は見当たりませんでした。薄明りのカフェで検温を済ませ、ウエルカムドリンクとおやきは明日にしていただき、お迎えのベンツのバンで数分先にある「本箱」に向かいました。ホテルのフロントはブックスストアとカウンターバーのレジを兼ねたもので、今回はこちらで記帳をして下さいと入り口近くのソファに腰かけ作業しようと奥を見ると、そこは本に囲まれたダイニングで、薪のグリルの火が印象的なカウンターに三名の方がすでに座られていました。このホテルのディナーは二回制で、五時半と七時四十五分。フロントの女性は着いたばかりでお疲れでしょうから、時間は気にせず、一休みしてからお越し下さいと気配りある対応。
 
 「松本本箱」は二階から五階まで全二十四室の客室。内容は、各階にデザインの異なるスイートが一部屋ずつ計四室、二階にジュニアスイートが一室、ツイン(三種類)が十九室。筆者は二階の一番奥にあるジュニアスイートに泊まりました。冷蔵庫の中の飲み物はすべてフリー。また、各階の廊下にお菓子や飲み物が補充できるコーナーが設けられています。「十帖」の造るシードルなどもあり、コンビニに出かける必要はなさそうです。一階の二十四時間開いているブックカフェにあるエスプレッソマシーンで珈琲も飲めます。
 
 他のお客様と時間が余りずれるのも申し訳ありませんし、お腹も空いていましたので、部屋に荷物を置くとすぐに一階のメインダイニング「三六五+二」へ。信州の四季折々(三六五日)の食材を歴史と文化を踏まえて(+二)現代に再現する「信州ガストロノミー」。そのキーワードは「発酵」。確かに、諏訪に住んでいた子供の頃も、冬になる前に野沢菜の「漬物」を漬ける「おは漬け」の習慣が地元の家庭にはあり、「真澄」などの「清酒」が造られ、そして湖畔には「タケヤ味噌」の工場が。今回訪れると、いまだ味噌工場が湖畔にあり驚きました。あと、松本・諏訪どちらのディナーにも感じたことですが、野菜が多用されていました。これも小学一年生の給食に、きゅうり一本と味噌、トマト一個といったメニュがあり、サラダにセロリが必ず入っていて辟易としたのをよく覚えています。大人になればセロリは美味しいと感じましょうが、幼稚園を卒園したばかりの小児にセロリはいかがなものかと思いますが。
 
 アミューズ(三種)、野菜(三種)、魚(蛸でした)、そして肉(安曇野放牧豚薪火焼き)、デセール(二種)とどれもポーションは少なめで、少食の筆者でもほぼ残さず食べてしまいました。料理はどれも美味しく、アミューズの「乳酸発酵のルバーブ」や料理のヨーグルトソースにデセールのヨーグルトアイスに代表されるように確かに「発酵」を意識したメニュでした。結局、宿泊客は筆者たちの他にこのディナーで一緒だった、カウンター席のお誕生日祝いの若いカップルと女性一人のみ。筆者たちはテーブル席でした。つまり、三室しか宿泊していなかったということになります。
 
 ワインリストは信州ワインだけからなるものでした。ペアリングもありましたが、もちろんそれはパスしてグラスのスパークリングを飲みつつ、ワインを決めることに。安曇野ワイナリーのシャルドネのスパークリングだったと記憶していますが、やはりシャンパーニュのブラン・ド・ブランのようなコクが出ず、平板な味になってしまうようです。これは山形県の高畠ワイナリーのスパークリング、嘉(よし)のシャルドネでも感じたことです。信州の赤ワインは塩尻の桔梗ヶ原メルロが有名なようにボルドー系の品種が主流で、ソーヴィニヨンかメルロがほとんどを占めていました。その中でピノ・ノワールは一種類だけ。さらに北部の長野市に近い高山村の「信州たかやまワイナリー」のピノ・ノワール2018年。税・サ―ヴィス込みで10780円。なかなかのお値段でしたが聞いたことのないワイナリーでしたのでここは是非、飲んでみたいと。結果はやはり色も薄く濃度に欠け水っぽいワインなのですが、果実味を上手に生かして柔らかい仕上がりになっているので、いわゆる薬っぽい味のブルゴーニュ、あるいはイタリアワインのブラケット(ピエモンテ)などに近いユニークなワインでそれなりに楽しめました。
 
 ただし、これは「かたくらシルクホテル」でも感じたのですが、小売3000円ほどのワインを一万円以上で売るのはいかがなものでしょうか。ホテル価格と言われればそれまでですが、一般の方が一万円でこの味かと勘違いされたら、信州ワインのイメージを損なう可能性さえあります。信州ワインを正しく知ってもらい、広めたいのであれば、信州に来れば、小売価格に近い値段でホテルでもワインが飲めるようにすることが良策ではないでしょうか。折角だから一万円の信州ワインを飲んでみようと思い、小売一万円のワインが飲めれば、日本でもこのような立派なワインを造っているのだと感心し、また数千円で美味しければ、日常使いに信州ワインの選択肢も加わり、多くのワイナリーのワインが試される可能性が出てくると考えられます。
 
 一方、諏訪の「かたくらシルクホテル」も今年の四月にグランドオープンしたばかりのホテル。諏訪湖畔の片倉館、片倉美術館など片倉財閥の敷地内に全九室、全室スイートというこじんまりした洋館です。二階がクラシック、三階がモダンな内装の部屋。筆者は二階の一番広い「綸子(りんず)」に泊まりました。湖畔ですのでどの部屋もベランダの目の前に諏訪湖が広がる素敵なロケーションです。筆者が「綸子」を選んだのは二階のクラシックの方が内装が落ち着いた色合いで、「綸子」だけがベッドの位置がベランダとは反対側の入り口脇の奥まった独立したスペースだったからです、驚いたのは道を挟んですぐ隣が筆者が卒園した聖母幼稚園だったこと。湖畔に面した教会部分のファザードは自分が通っていた頃は玉砂利の敷かれた風情ある動線だったのですが、今は駐車場になっていて機能的とはいえ、ちょっとガッカリしました。
 
 「かたくらシルクホテル」でのディナーは一階のフレンチ「ラ・ソワ」で供されました。各テーブルがカーテンで仕切られていましたので何組いらっしゃったのかわかりませんが、筆者たちを除いて、二、三組だったと思われます。筆者の泊まった「綸子」は二階のエレベーターホールが片倉家の展示になっていて、その左側にあるのですがそちらには「綸子」しかなく、他の四部屋はエレベーターホールの右側にあるので誰にも会わなかったのです。時間は選べるようになってて、筆者たちは7時からにしたのですが一番遅かったらしく、その後来客はありませんでした。 
 
 「創作信州フレンチ」と謳ったコースは三種のアミューズ、前菜、スープ、魚(真鯛のポワレ)、グラニテ、メインの肉(蓼科牛のロースト)、シルクカレーor信州そば、ワゴンサーヴィスのデセールとなっていました。キーワードはホテル名にも登場する「シルク」です。ラ・ソワはフランス語で「絹」。片倉財閥は養蚕製糸業でシルクエンペラーと呼ばれるほどの成功を収めた名家。あの富岡製糸場も1939年、国営から片倉製糸へと移行しています。戦後財閥解体で片倉興産に。1928年に当初福利厚生施設として建設した温泉施設「片倉館」は現在も営業。筆者も子供の頃、近所の方に連れられて何度か出かけたことがあります。また、映画『テルマエ・ロマエ』の撮影にも用いられました。
 
 そんな「絹」に縁の深い片倉の宿ですから、食材にも「シルクパウダー」が用いられていました。さすがに蚕のさなぎは出てまいりませんでしたが、海のない長野県ではたんぱく源に今流行りの昆虫食が伝統的で、イナゴやタガメの佃煮、ハチの子などは子供の頃、よく見かけました。蚕のさなぎや幼虫も同様に甘露煮などにして食しているようです。シルクの有効成分を粉末にしたシルクパウダーはシルクタンパクが生活習慣病に効果があるということでシルクの新しい活用法として注目されているとのこと。魚料理のソースはシルクパウダーを使ったヴァンブランソース、デセールのプリンもシルクパウダー入りと。その真骨頂がシルクカレーでした。シルクパウダーをふんだんに用いた白いカレーで、欧風と思いきや、本格的なアジアンテイスト。聞くとスタッフにネパールの方がいるそうでその方の考案とか。どの料理も悪くなく、筆者は蓼科牛がサッパリしていて気に入りました。しかし、シルクカレーがなんといってもインパクトが強くメインディッシュだったと思います。
 
 ワインはやはり、信州ワインのみで「松本本箱」とリストアップの数も同じくらい。選んだのはやはり一種類しかなかったピノ・ノワール。こちらは塩尻の桔梗ヶ原にある老舗「五一ワイン」のピノ・ノワール 2018年。ただ、残念なことにこちらも3000円くらいのワインが12870円(税・サーヴィス込)と四倍くらい。味もボディが薄っぺらいのに酸が強いので飲み辛い。同じヴィンテージでも昨日の「信州たかやまワイナリー」の方が上手に造っているのがわかりました。
ディナーに関して、「信州」を謳った料理は共に奮闘のあとが見られ好感が持てました。ただし、信州ワインに関しては納得のいかないことが多々あります。間違いなくボルドーやブルゴーニュを合わせた方が美味しいと思われる料理にあえて信州ワインを合わせよというのであれば、それなりの工夫が必要ではないかと思われます。さもなくば、信州ワインは結局のところ、観光用のお土産ワインという臆見を変えることが出来ないでしょう。
 

第六十二回
諏訪の思い出
――記憶の味と現在――

 前回に引き続き、松本・諏訪への旅の話の続きをさせていただきたいと思います。前回は宿で食した信州ガストロノミと信州ワインについてでしたが、今回は肝心の旅の目的、筆者が幼少期を過ごした諏訪への再訪と美食の関係について書かせていただければと思っております。
 旅の一日目、「松本本箱」への訪問は思わぬ車のエンジントラブルで予定が大幅に狂い、レンタカーで宿に到着したのがディナー開始の午後7時45分の十分ほど前というよく間に合ったというべき事態で、宿のある浅間温泉を散策する余裕などありませんでした。しかも、当日は雨模様でこのコロナ禍ですので、温泉街も夜は真っ暗で人の気配もなく、周辺がどうなっているかもわからないまま、まさにピンポイントで「松本本箱」に来たという趣の一晩を過ごすことになってしまいました。
 
 筆者は諏訪に住んでいるときに両親に連れられ、一度浅間温泉を訪れています。小学校二年生くらいだったかと思います。ところがどの宿に泊まったのか、温泉街はどのような光景だったのかの記憶がまったくないのです。記憶にあるのは駅から宿に向かうタクシーの中で、温泉街で火事が起こったというニュースがラジオから流れていたこと。その温泉街が浅間温泉だったかは思い出せないのですが子供心に不安になってしまったことが一番の思い出。あとはそこからほど近い美鈴湖へ出かけたことくらいしか覚えていません。ですので、浅間温泉のイメージがまったくなく、今回もまた闇夜の中での到着でしたのでいよいよ謎めいたものを感じてしまいました。
 
 翌朝、曇天でしたが雨はなんとか降っていない状態でしたので、朝食の後、チェックアウトまでの短い時間でしたが、ようやく初めて外に出て、温泉街を散策することが出来ました。
そこで気づいたのは、浅間温泉は有名な温泉街ですが、極めて小規模であることです。狭い地域に宿が密集している感じ。リゾートが苦手な筆者は温泉に出かけることがないのですが、例外的にワイン仲間との泊りがけのワイン会で毎年、伊香保温泉に出かけています。伊香保に比べると随分規模が小さく感じました。伊香保には階段街といって、一番上にある伊香保神社に行く石段の脇に旅館が密集している場所があるのですが、浅間温泉はそれをちょっと大きくした位に思われました。伊香保温泉全体はもっと広域で、筆者が泊まるホテル木暮は伊香保最大の規模ですが階段街の脇の山の斜面にあります。その山は木暮家のものだそうですのでスケールが違います。階段街に似ていると思ったのは、浅間温泉も坂になっていて一番上に神社があるからです。行ってみたのですが、伊香保神社に比べると随分小さな神社でした。「松本本箱」は浅間温泉の入り口からは随分上の方にあることがわかり、宿の前の道をまっすぐ昇ると神社まですぐでした。その途中に宿と同じ経営の「哲学カフェ」があり、そこでお茶をしました。哲学書しか置いていないブックカフェで、もちろん他に誰も客はなく、静けさの中で時間が止まったようでした。コロナ禍が去れば、細い路地は人であふれ、このカフェも満席になるのかなあとちょっと想像がつきませんでした。
 
 それに比べると諏訪の方が町全体が温泉地といった趣で駅に足湯があったりしますが、実際のところは駅の周辺から湖までの間の地区のみが温泉街で大部分は農業、酒・味噌といった食品製造、そして精密機械が主たる産業と言えましょう。今回出かけて、駅から湖まで子供の頃は距離が随分あったように思ったのですが実際はさして時間がかからないことに気付きました。筆者は駅裏の山の手の茶臼山に住んでいたのですが、通っていた聖母幼稚園は湖畔にあります。どうして通っていたのか思い出せず不思議だったのですが、おそらく徒歩で通っていたのだろうと。山の方に向かう曲がりくねった道はお迎えのバスなど通る道幅はなく、バスで通った記憶がないのです。
 
 そして、今回訪れて何より驚いたのは駅前こそ変わってしまったものの、半世紀前、筆者が住んでいた時の建物が結構そのまま残っていたことです。山の手の一番上の立石地区にある展望レストラン「パリエ」でランチした後、タクシーで山を下り、途中の茶臼山との境のT字路で降ろしてもらいました。そのまま道を下れば茶臼山、左に進めば桜ケ丘という場所です。そのちょっと前に郵便局が昔のままにあって驚きました。T字路の角には「福美屋」という老夫婦が営んでいた万事屋があったのですが外装がそのままに存在していました。もう、店は営んでいないのでしょうが生活はしているようです。向かいにあった米屋、道を下ってすぐの魚屋はなくなっていました。しかし、T字路に小学校一、二年生の頃できたスーパー「三味」の支店は廃墟となってそのまま存在していたのです。「三味」は当時、駅前商店街にあった唯一のスーパーで、あと大規模商店と言えば、駅の真向かいにあったデパート「丸光」でした。もちろん、「丸光」も「三味」も跡形なく変わってしまいましたが。それまで毎日、駅前の「三味」まで買い物に出かけていた母がすぐ近くに「三味」ができたと喜んでいたのと、お使いを頼まれ「三味」でいろいろな食品を見るのが楽しみだったことを思い出します。
 
 子供心に衝撃的だったのは、1968年、小学校二年生の時に「ボンカレー」が発売されたことです。それまで保存のきく食品といえば、缶詰しかありませんでした。あとはインスタントラーメンくらいでしょうか。インスタントラーメンといえば、もう一度食べてみたいものが諏訪時代にありました。調べたところ、1970年に明星食品から発売されて短期間で製造中止になってしまった「劉昌麺(りゅうしょうめん)」という名の製品で、劉昌さんという料理人が監修したらしい。その劉昌さんが登場したCMも流れていました。当時は、チャルメラ、出前一丁、サッポロ一番くらいで今ほどインスタントラーメンの種類はなかったのですが、「劉昌麺」のスープの味が今までのものとはまったく異なっていて、子供心に美味しいと感激したのでした。ちなみに「カップヌードル」が登場するのは1971年9月、筆者が神戸に転校した年の秋の事です。
 
 そんな缶詰とインスタントラーメンくらいしか保存食がない時代に、突如レトルトの「ボンカレー」が登場したのです。「大五郎、三分間待つのだぞ」と今年亡くなられた笑福亭仁鶴師匠が名セリフを残されたCMが有名ですが、筆者には「おどまボンカレ、ボンカレ」と「五木の子守唄」をもじった替え歌のCMが脳裡に焼き付いて離れません。子供心にどうして腐らないのか不思議で、母に買って欲しいとせがんだものです。当時(いや今も)、カレーは家庭料理の定番の一つで、バーモントカレーなのかジャワカレーなのか半固形のカレールーを用いて各家庭で我が家の味がご馳走だった時代です。筆者は夢路いとし、こいし師匠が司会されていた「ガッチリ買いまショウ」のスポンサー、オリエンタル食品のプラスチック容器に入ったチャツネがついていた「オリエンタルカレー」が気になって仕方ありませんでした。チャツネが珍しかったのです。
 
 食品保存が進んだ時代でした。驚いたのは、牛乳が紙パックに入って自動販売機で売られるようになったことです。丸光デパートの入り口に自動販売機があり、これも母にせがんで買ってもらったものです。牛乳といえば、毎朝、牛乳屋さんが瓶に入ったものをやはり瓶入りのヨーグルトと共に配達してくれるものと思っていたのですから。ただし、冷凍食品はすでに技術はあったようですが、電子レンジが家庭に普及する以前でしたので、家庭には皆無でした。
 
 子供の頃の思い出を手繰り寄せながら廃墟となった「三味」を眺めつつ、茶臼山の道を下っていくと筆者が住んでいた社宅のあった場所はすぐです。ここはまったく変わっていて、住宅が並んでいました。さらに下っていくと崖の上に楽器会社の「全音」の工場があった場所はマンションになっていました。当時からある宿屋も健在で、変電所もそのまま。廃墟になっている建物もいくつかあり、それは筆者の子供の頃のそれが朽ちたものたちでした。手長神社の石段を下りて、街中に戻ってきても当時と変わらぬ風景が結構残っていました。薬を買っていた薬局も古びていましたが当時のままでしたし、筆者が散髪していた「岡本」理髪店もその佇まいが昔のままで時間が止まったのかと思うほど。これはどうしたことか。
 
 しかし、一番楽しみにしていた建物が取り壊されてしまっていてガッカリしました。それは筆者のかかりつけ医、「北原医院」の建物です。以前調べた時は、昭和初期に建てられた洋館が上諏訪のレトロな街並み建築の代表として紹介されていました。映画『いま、会いにゆきます』(2004年)で野口医院としてロケ地にも使われた素敵な建物でした。映画で診察室の光景が登場するのですが、真っ白な内装で窓から日が差し込み、先生が座っていた椅子も当時のもので子供の頃、湖畔に近い病院まで通ったのを思い出しました。大先生と若先生がおられて、熱など出すと車で家まで往診に来て下さったものです。
 
 しかし、諏訪は時代に取り残されたレトロな街という訳でもありません。「北原医院」はこの辺りだっただろうと出かけた先には「シアトル」というアメリカンな古着屋さんがありました。同行者に尋ねたところ、有名な古着屋さんとかで県外からも買いに来る人が絶えないとか。実際、地元の高校生などで賑わっていました。そして、そのはす向かいの更地が「北原医院」のあった場所だったのです。同行者は原村にご実家の別荘があり、そこを仕事場として使うこともあり、この辺に意外と詳しいのでした。そして、上諏訪には「リビセン」と呼ばれる「リビルディングセンタージャパン」という全国から人が買いに来る有名な中古建築資材専門店があることを教えてくれたのです。店内にカフェなども併設されているそうです。時間がなく立ち寄れなかったのですが、珈琲が飲みたくて、「アンバード」という専門店に出かけたのですがそこは「リビセンデザインの店」でした。調度や内装がリビセンの者らしいのです。若いカップルが営んでいたお洒落な自家焙煎の店で、筆者はエスプレッソトニックをメニュに見つけて狂喜乱舞。広尾のバールが夏限定で出していたのにはまって、イタリア産の瓶製品を買ってみたのですが炭酸が抜けていたり、甘すぎたりでまったく美味しくなく。本当は微かにシロップを入れ、レモンやライムなど酸で味を調えるのですが、「アンバード」のそれはまさしくその味で、諏訪で本格的なエスプレッソトニックが味わえるとは驚きでした。ちなみに、筆者はこの夏、甘いと飽きが来るので、カフェベースという希釈して飲むコーヒー飲料の無糖のものを買い、サンペリグリノで割って飲んでいました。サンペリグリノの金属味が酸味の代わりになり、珈琲の酸味とちょうどいい具合で麦茶代わりというかなかなかの代用品でした。
 
 また、「アンバード」には「上諏訪リビセンご近所まっぷ」が置いてあり、他のリビセンデザインの店だけでなく、パン屋、お菓子屋、雑貨店などのモダン系から、酒蔵、食堂など昔ながらのものまでセンスのよさそうな店が多数掲載されています。こうしてみると、諏訪は古さの中に新しさを見つけることが出来る街ということが言えそうです。
 
 さて、今回の旅の最後に、幼年期、筆者にとって一番のご馳走だった「うなぎのねどこ おび川」で鰻を食して帰ることにしました。紙面が尽きましたので、鰻の話は会員用で書かせていただくことにします。
 

第六十三回
緊急事態宣言解除後の「美食」

 東京オリンピックの開催中も感染者が増え続けたコロナ禍でしたが、八月後半から減少に転じ、この原稿を書いている十一月半ばには東京の感染者も一日二十人前後になり、全国でも百名台で推移している状態です。九月末には緊急事態宣言も解除され、首都圏の一都三県、大阪府に引き続き出されていた飲食店への時短要請も人数制限はあるものの十月二十四日までで解除されることになりました。
 
 筆者は十月に入ると大学が対面授業を再開し、都内に出るようになりました。それまでは月に数回、少ない時は月に一回、都内に出るか出ないかという生活が続きました。懇意にしている元代々木町のシャントレルには月一で顔を出すようにしていましたが、外食は他にほとんどない状態でした。そんな筆者でしたが、時短要請が解除され、酒類の提供が再開されると急に会食の機会が増え始めたのです。この公開用頁では徒然なるままに、それぞれの「場」の雰囲気をお伝えしたいと思います。
 
 十月三十日には高校の同級生と横浜の「スカンディヤ」に出かけました。いつも、ランチが終わりディナーまでの間の時間帯にワインを傾けつつ、四名でアラカルトで食事するのですが、今回も午後二時に予約して出かけました。二階のレストランの方ですので、いつもそれほど他にお客様がいらっしゃるわけでもなく、今回も筆者たちの他に二、三組の方たちがいらしただけでゆったりと食事することが出来ました。その後、千葉に戻り、行きつけの海浜幕張にあるホテル・ニューオータニ幕張最上階のラウンジで、仕事を終えた同級生の医師が加わり、五名で旧交を温めました。千葉県は人数制限も撤廃しましたので五名でも同じテーブルで不自由なく会話することが出来たのです。前回七月末に四名で訪れたときは何とかお酒は飲めたのですが時短制限があったのと、二名で一席でしたので二名ずつ席が離されてしまい、四人で話することが出来ない状態でした。ホテルも宿泊客が随分戻ってきたようで一階のロビーは賑わいを取り戻しつつあるように思われました。ラウンジも宿泊客のカップルなどが東京湾の夜景を見渡せる絶景の窓際席に多々訪れていました。
 
 さて、二日後に十一月を迎えたのですが一日が月曜の一週間、筆者は偶然とはいえ、三回もディナーすることになってしまいました。このようなことはコロナ禍になってからなかったように思われます。
 
 まず、一日に十月二十八日にオープンしたばかりの銀座「グッチ・オステリア・ダ・マッシモ・ボットゥーラ」に出かけました。『美食通信』を連載させていただいている銀座のスーツ屋さん、The Cloakroomの島田社長にご招待いただいた次第です。八月からプレオープンしていたようですが、それはイタリアからシェフが来日出来ず、グランドオープンが遅くなってしまったからのようです。オープンしたてはなかなか予約が出来ないのが常で、一九九四年十月に恵比寿ガーデンプレイスが開業し、シャトーレストラン、ロビュション=タイユヴァンが開店した際も予約を入れられたのは年が変わってからのことでした。それに比べ容易にオープン数日後に予約が出来たのは、三ヶ月近くすでにその料理の一端を堪能することが出来、新し物好きの日本人としてはグランドオープンが遅きに失した感があるのと、やはりコロナ禍で銀座そのものにいまだ人が戻っていないからではないかと思われます。もちろん、満席ですし、インテリアから店の雰囲気まで若い年齢層のお客様を設定しているように思われますので客足は順調に伸びると思われます。また、七皿のコースで15000円だそうで、筆者など自腹では滅多に来れそうにない店ですが、島田さんに言わせると「銀座では安い」そうで、確かにライバルのブルガリはリストランテですので、さらにお高く、フレンチでしたら、「ロオジエ」、「レカン」、「エスキス」あたりのグランメゾンになると料理だけで倍の30000円くらいでしょうから、まさに「オステリア」といった感があり店の敷居も高くないので、デートのカップルや女性グループなどで賑わうに違いありません。ファッション同様「グッチ」らしい戦略のように思われます。これで年末の『ミシュラン東京』で一つ星を獲得できれば最高なのでしょうが、インスペクターがプレオープンで評価した場合間に合うとは思うのですが星付きに該当するのか、さりとて、グランドオープン後に評価するとなると一年遅れてしまうかもしれません。個人的には一つ星相当と思われますので、まずは年末の発表に注目したいと思います。(『美食通信』第12回を「グッチのオステリア」というタイトルで起草しましたのでご参照いただければ幸いです)。
 
 十一月四日には神泉の「ビストロ・パルタジェ」に伺いました。この店は筆者のお気に入りの一つで気軽によく立ち寄るのみでなく、HPワイン会や大学院のOB会など貸し切りで使わせていただいたりしています。料理はアラカルトだけで、ワインのお供といった感があります。しかし、そのクオリティは高く、この日も久しぶりに食したパテ=アン=クルートは絶品でパイの美味しさ、栗をふんだんにつかった具の充実感といったら、他でなかなかお目にかかれるものではありません。そんな店ですから、酒類が提供できない状況では大変なことになりました。以前書かせていただいたと思いますが、牛タンシチューだけの提供でその苦境をしのがれていたのです。カウンター、テーブル合わせて二十名。二人で営んでおられますので協力金等でなんとか維持出来たのかもしれませんが厳しかったと思います。牛タン時代に一度お邪魔しましたが他にお客様は誰も来ずで、自分も都内に出ませんので伺うことが出来ませんでした。しかし、この日はテーブル等の間隔をあけてたりしていたのもあり、満席になっていました。コースでしっかり食事という店ではありませんので、逆に気軽に寄ることが出来、以前のように使いやすいのだろうと思われます。ただ、東京都はいまだ会食の人数を四名までに制限していますので(周囲三県は人数制限がなくなりました)、これから忘年会など大人数の会食が増える時期にどのように推移するか気になります。
 
 それに対し、翌十一月五日に出かけた表参道の「アンカフェ」はメニュがまだ元に戻っていませんでした。一九九六年開業という老舗のカフェレストラン。同じフロアに青山ブックセンター、アカデミー・デュ・ヴァンなど文化的な施設があり、当日もアカデミー・デュ・ヴァンでシャンパーニュの試飲会があった模様。人で賑わっていました。懐かしいのは開業直後の一九九六年秋、当時翻訳『ソクラテスのカフェ』が出てブームとなったフランス人哲学者マルク・ソーテが来日し、彼がパリで実践していた「哲学カフェ」を「アンカフェ」と渋谷文化村の「カフェ・ドゥマゴ」で行なったことです。当時「ドゥマゴ」の常連だった筆者は「ドゥマゴ」の方に出かけたのですが、ソーテは九八年に急逝してしまいましたので貴重な体験でした。という訳で、筆者も拙著やピュロドフスキの翻訳の出版記念パーティーを「アンカフェ」で行わせていただきました。
 
 ディナーは4000円ほどで食せるコースがお得感満載で、アラカルトもグランドメニュの他に日替わりの紙のメニュがあったりして、リーズナブルに楽しめます。ワインもワールドワイドですが5000円前後でリストを構成して、一万円するワインはありません。アカデミー・デュ・ヴァンの受講生たちが授業の終了後、ワインを持ち込んでお勉強している光景をよく見かけます。ただし、この日はコースメニュがなく、アラカルトも数が随分少なかったので驚きました。まだお客様の入りが不安定でコースは出せないのでしょう。出版記念パーティーを行なえるくらいですし、テラス席も含めれば104席と「食べログ」に記載がありますので集客が安定してこないとメニュがなかなか元に戻らないのではないかと心配です。ワインは店長の石田さんがボルドーを用意して下さっていましたので問題ありませんでした。代表の郡司さんも久しぶりの来店を喜んで下さいましたし、接客にホスピタリティを感じる良い店ですので何とか以前の賑わいを取り戻して欲しいものです。
 
 メニュの問題が「アンカフェ」だけではないことを痛感したのは、十一月十六日にゲストを迎えて行なった講義の後、ゲストを含む三名で大学近くで会食しようとした時のことでした。京王線明大前駅は交通の便がよく、学生たちは新宿・渋谷にすぐ出られるので駅周辺に飲食店が意外にもほとんどありません。筆者は少し歩いたところにあった「ロートス」というカフェレストランによく出かけていました。ところがこのコロナ禍のせいか、大学がオンラインになっている間に閉店してしまっていたのです。消息を調べたところ、若い店主は地元の埼玉県比企郡小川町に家族で転居し、「おがわ食堂」というイタリアンを始めたことがわかりました。都心よりも自然が多くコロナ禍も少しは穏やかな郊外での新たな出発に幸あれと願うばかりです。
 
 という訳で歩いて移動できる隣駅の下高井戸まで出かけたのですが、有名な菓子店「ノリエット」の営むビストロ「プティ・リュタン」はランチだけの営業でディナーは再開しておらず、カルディのピッツェリア「トニーノ」は満席と目ぼしい所がアウトで途方に暮れそうになったのですが、トニーノの入り口から線路向こうを見ると灯の付いた丸い看板が見えるではありませんか。これは飲食店に違いない。行ってみるとWine、Bearと書いてあるではありませんか。どうもバーらしいのですがフードもありそうですし、雰囲気も良さそうなので入ることに。それが「ブルーイ」でした。若い店主一人で切り盛りされているようですが黒板にそれなりの点数のフードメニュが。ところが注文しようとすると、「申し訳ありませんが解除になったばかりで準備が整わず、無いメニュが結構ありまして」と説明が。パスタも三種類中、カルボナーラがなかったりとだいたい三分の一くらい欠品に。残念でしたがいただいた料理はどれも美味しく、テーブルは一つだけでこじんまりして居心地の良い店でした。本当に助かりましたが、小さなバーでもやはりすぐに元に戻るのは難しいのだなあ、と実感した次第です。
 
 この原稿を書いている時点で最後に出かけたのは、十一月十九日、元代々木町の「シャントレル」での二十年来の友人との会食です。二十三日は筆者の誕生日で、例年十名ほどの友人とワインを持ち寄って会食するのを常としていたのですがこのコロナ禍で昨年に引き続き、今年も中止の羽目に。感染状況は落ち着いて来ましたので二年ぶりに、わざわざ神戸から来て下さったのでここはやはり「シャントレル」でご一緒するしかないと。先月は大学が対面に戻ってしまいバタバタして、九月三十日以来出かけていませんでした。ということは、前回は緊急事態宣言下でしたので、他にお客様は顧客の方二名だけだったように記憶しています。今回出かけると、もちろん席をいつもよりは間隔をあけているものの満席でした。中田シェフ曰く、「久しぶりのお客様ばかりなので、関さんはすでに食べた料理をお出しするので、関さんのところだけ別のメニュにします」。今風のお任せコースのフレンチですと確かにメニュは決めやすいでしょう。皆が同じ料理を食しますので。以前食したモン=サン=ミッシェルのムール貝の一皿(これは美味)などが供されていました。友人には申し訳なかったのですがムール貝は出ませんでした。メインも自分たちだけ牛頬肉の煮込みでした。これはおそらく顧客の方たちには振舞われるのでしょう。筆者は手の込んだ料理こそフランス料理であると確信していますので大いに堪能させていただきました。マディラを使わないところがポイントとシェフがおっしゃっていましたが濃厚なのですが甘くないので、くどくないところが確かに見事と思った次第です。
 
 このように客足はだんだんと戻ってきているようですが、まだまだ先行き不安なところが多々感じられました。実際、日本は今のところ小康状態ですが、欧米は感染再拡大が連日報じられ、お隣の韓国も同様とのこと。果たして、日本は今後どうなるのか。油断は禁物といったところです。
 

第六十四回
評価することの難しさ
――『ジバラン』(1998年)再読―― 

 今年もまた、年の瀬の風物詩として、『ミシュラン東京2022』が公刊されました。このコロナ禍できちんと調査出来たのか不審に思われますが、まあ飲食業界にとっては嬉しい話なのかもしれません。日本では感染状況が落ち着きを見せ、十一月以降何とか年末まで飲食への様々な制限はなくて済みそうですから。しかし、世界に目を向けると新たなオミクロン株のせいで感染者は急増し、再びロックダウンに踏み切る国も出てきています。この原稿を書いている年末、日本でも徐々に感染者数は増加していますので新年に入って感染爆発が起こらないことを祈るばかりです。大学教員としては期末試験、入試、卒業式、入学式と年明けから新学期まで大学は「繁忙期」であり、様々な制限は受験生などに多大な影響を与えることは必至です。実際、濃厚接触者の受験を認めないという文科省の方針にクレームが相次ぎ、再検討を政府は迫られています。飲食に関しては今までのような制限は行わないと言われていますが、はたして医療が逼迫し始めれば、また「時短」、「酒類の提供禁止」などが求められるやもしれません。
 
 さて、『ミシュラン東京2022』の評価は例年二月公刊の『ゴ・エ・ミヨ』が発売されたら、比較して論じることとして、Amazonのレヴューをチェックしたところ、以下のようなコメントを見つけました。
 
「内容のスカスカさに驚いた。
各店舗サマリーしか書いてなく、もうちょっと詳しい内容はQRコードでwebでというところだが、英語ページに飛んでしまう。
日本語ページを見に行っても大したことは書いてなく、ビブグルマン、星を取ったお店を探すだけの本で、詳細を調べるには、日本のクチコミサイトで調べるしかない。
インターネット上には、ビブグルマン、星を取ったお店を網羅して紹介しているサイトが多々あり、ますます、この本を買う理由がない。
値段も高すぎる。
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つだけ使い道があるとすれば、ミシュランガイドを部屋に転がしておくと、通っぽく見えることぐらいか」。
 
 表現こそ辛辣ですが、内容的には正鵠を射たものと言えると思います。星を付けるからには根拠などが示されているかとおもいきや、店の紹介文しか載っていないし、具体的な内容や店の感想などを知ろうと思えば、食べログをはじめ無料で閲覧できるサイトを見た方がよほど詳しく記載されているのは事実ですから。
 
 本という媒体を三千円以上出して購入する意義は何処にあるのか。ある種の評価が明確に記載されていたら、上記の投稿の言い方を用いさせてもらえば、「内容がスカスカでなければ」、本にして買う価値はあるのでしょうか。
 
 そのような問いに思いを馳せていたところ、筆者は逆に評価した本のある種の困難に遭遇することになりました。それは筆者がFacebook上で展開している「エチケットは語る」という連載に関してのことでした。現在、生涯で一番ワインを飲んだ時期の一九九七年のエチケットから重要なものを日付順に紹介させていただいているのですが、筆者のテリトリーではない銀座のワインバーなどを梯子した際のエチケットが存在するのです。何故なのか記憶をたどると一冊の本にたどり着きました。それは前年の一九九六年三月に公刊された、ワインフォーラム87編著、『ワインが安心して飲める店買える店』(柴田書店)で首都圏版と記載されています。当時はまだネットは普及しておらず、「87人のワイン愛好家がポケットマネーで見つけた店ガイド」と帯に大きく謳っています。筆者はこの本に記載されている店に実際、検証しに出かけていたのです。そして、エチケットの裏に書かれたコメントを読み返すと通常はワインの評価が主になされているのですが、当該の本に掲載されている店に出かけた際のエチケットには店の評価がどちらかというと大きな比重を占めていました。それは玉石混交といった風で確かに良い店もありましたが、何故こんな店を掲載しているのか理解出来ない酷い店もあったのです。
 「利害関係のないまったくない公平な立場」の「一般愛好家87名」によって組織された「ワインフォーラム87」によって書かれたこの本は「今後、改訂版を出していくつもり」であり、「より公平なガイドにするために、ミシュラン同様、メンバーの個人名は公表しない」。また、「構成メンバーも拡大する方向で考えている」という。ただ、残念なことに改訂版は出ず仕舞いだったと記憶しております。
 
 内容的には今読み返すとなかなか興味深いものがあります。店に置いてある一番高いワインと安いワインが記されていて、ロマネ・コンティ1976年が128000円で飲めた店があったり、ボルドーの五大シャトー級でも二万円出せば充分楽しめたことがわかります。現在のワイン価格がいかに高騰してしまったかがお分かりになるでしょう。料理の方は当時でも一万円超えのコース料理を出す店は多々あったのですから。そんなレストランでもワインは最高、ペトリュスが五万円と書かれていたりするのです。
 
 ただし、先ほども書きましたようにこの本は推奨された店のみを掲載しているのですが実際出かけると首をかしげるような店も多々あったのです。そして、何より一番疑問に思ったのは店の推薦条件に関してです。それは「プロ中のプロ、田崎真也氏に依頼しました」と。ここで言う「真のプロとは、状況を判断し、予算に応じて、好みのワインを選んでくれる人」のことらしいのですが、これって本末転倒ではないでしょうか。例えば、料理を評価するとき、料理人、究極はその料理を作った人の評価に従えというようなものです。
 
 評価するに値する人間は「利害関係のないまったく公平な立場の一般愛好家」であっても、評価方法が「公平な立場にない」ソムリエの基準に従って評価したとしたら、それは「公平な評価」になるのでしょうか。つまり、評価する者が評価される者にその基準の教えを乞うというのはどう考えてもおかしい。評価する者は自らその基準を設定することが出来なければ、自律した評価など出来るわけがありません。百歩譲って、プロに教えを乞うというなら、それはソムリエではなく、プロの批評家でなければならないでしょう。当該の本が世に出る前年の一九九五年三月に見田盛夫氏がすでに『エピキュリアン』(講談社)を上梓されていました。相談するなら、田崎氏ではなく、見田氏のようなプロの批評家でなければ公平性に欠けます。それとも見田氏のような批評家は「利害関係」に左右されていて公平な立場にないので「一般愛好家」の方が公明正大であるとおっしゃるなら、やはりどのような者であれ、プロに頼ってはいけないのです。
 
 ここで筆者にはある本がすぐ脳裏に浮かびました。まさしく、一般愛好家らが自ら基準を設け評価することで話題となった「ジバラン」のことを。それは、一九九八年十一月に発売された、ジバラン審査団(代表さとなお)著、『Jibaran フレンチレストランガイド』(日経BP社)として単行本化されました。帯には「インターネットの人気グルメ・サイト ジバランついに単行本化 自腹・覆面で食べ歩いた全国フランス料理店120」とあります。そう、インターネットが普及し始め、一般愛好家たちが始めたフランス料理店評価サイトが話題となり、本にまでなったのでした。そこで今回この『ジバラン』を再読することで「評価する」ということとはいかなることかを再確認し、その問題点などを考察してみたいと思います。
 
 「ジバラン」は「日本のグルメガイドへの疑問」として、「顔を知られている人が評価する」ことで店側はその人向きに特別の配慮をする。評論家は経費で食べるので「自腹客の感覚からは程遠い」。グルメ雑誌や番組は「取り上げるからには褒めなくてはならない」。従って、「店とのなれ合い評論が多い」。また、他方、食べログなどの一般人のコメントは「評価者のレベルがまちまちすぎて」混乱をきたすだけであると批判します。その点、「ジバラン」は「自腹・覆面で審査している」。メインターゲットを3040代に置くことで「等身大の評価を心がけている」。また、「明確にランキングをつけ」、「地方のレストランも同じ基準で評価」し、インターネット時代らしくその評価は「リアルタイムで変わって行く」と謳っています。そして、一番重要と思われるのは「評価ポイントが違う」、つまり独自の評価基準を設けているのです。
 
 つまり、「ジバラン」も正しく評価出来るのは、「利害関係のないまったくない公平な立場」の「一般愛好家」であるというスタンスは『ワインが安心して飲める店買える店』と同様であり、しかもプロを批判し、自ら独自の評価基準を明確に設定して審査しています。その評価の仕方は「ジバラン審査基準」として、243247頁に明示されています。その三つの評価項目は「1.値段に見合ういい時間だったか」、「2.印象的な料理はあったか」、「3. また自腹で再訪したか」であり、各10点ずつ、計30点満点で評価しています。その理由は「従来のガイドでは『味』、『サービス』、『雰囲気』などと項目分けしているものが多い」が、「ジバラン」では「年に1回くらいしか行けない自腹族がいかに楽しめるレストランか」を考えて新しい評価基準を設けたとのこと。こうして、約二百店が審査され、その順位が「ジバラン総合ランキング」として公開され(228234頁)、一位のザ・ジョージアン・クラブとレカン(27.3点)から東京は18点まで、東京以外は16点までの120店舗の評が掲載されています。また、27点までが三ジバラン、24点までが二ジバラン、21点までが一ジバランとミシュランの三つ星のような評価もなされています。結果、三ジバランは上記の二店のみ、東京以外での最高点は大阪のル・ポンドシェルの25.0点でした。
 
 興味深いのはメンバー22名中、一人でも出かけて評価した場合、その点数が採用されていることです。良心的に評価人数が明記されています。一位のザ・ジョージアン・クラブは六名、レカンは四名が訪問し評価した平均点となっています。一方で、ラ・ビュット・ボワゼは一名しか訪問していませんがその方のつけた24点がそのまま点数となり、二ジバランを獲得しています。もちろん、そうしなければ、地方のレストランなどはメンバーが旅の途中に立ち寄って評価していたりするのですから、一人の評価をそのまま採用する必要性は納得できます。
 
 ただし、ここからして、「利害関係のないまったくない公平な立場」の「一般愛好家」であれば誰であれ、正しく同等の評価能力を持ちうるのかといった疑問が生じるのは必至ではないでしょうか。
 
 このように『ジバラン』は大変興味深い試みであり、実際話題になったわけです。しかし、二〇〇五年にサイトは閉鎖されたそうです。その理由を「ブログなどの個人が評価する時代になり、役割を終えた。誰もが自分の“口コミサイト”を作れるようになりつつあるから」と新聞のインタヴューで答えたそうです。しかし、「ジバラン」の必要性を説いた際、一般人のコメントは「評価者のレベルがまちまちすぎる」と批判していたではありませんか。
 
 ここには「評価すること」のある種の困難さが露呈しています。会員用ではこの「困難さ」について考察したいと思います。その際、『ジバラン』の翌年に公刊された見田盛夫氏の『エピキュリアン・2000』の評価との比較、さらには評価されたレストランに当時筆者が出かけた際の記憶を参照することになるでしょう。
 

第六十五回
選ぶことの重要性
――『孤独のグルメ』から『黄金の定食』へ――

 また新しい年を迎えました。長きにわたり拙文をお読み下っている皆様に心より感謝申し上げます。ところで皆様はどのように年を越されたでしょうか。筆者は千葉の片田舎に住む独居老人ですので普段と変わらない生活を送っておりました。外食を好みませんので、毎日一人寂しく食卓を囲むのですが静寂に耐えられないのでどうしてもテレビをつけてしまいます。年末年始というのは特番か再放送で、ワイドショーやドラマの再放送などいつも見ている番組もお休みです。そんな中、テレビ東京で『孤独のグルメ』の再放送が行われていました。筆者はこの番組が好きで、一日に九時間などという日もあって、朝食、昼食とリビングに降りてテレビをつけると松重豊氏演じる「井之頭五朗」が口一杯に美味しそうな食べ物を頬張るシーンが映し出されると、ついつい何話も見入ってしまうのです。結局。大晦日も、年に一回だけ家でワインを飲む習慣があり、シャトー・ラトゥールの1990年のドゥミブテイユを飲みつつ、『孤独のグルメ』の大晦日スペシャルを見終わって、新年を迎えることとなりました。
 
 筆者が『孤独のグルメ』に惹かれるのは、筆者もまた「孤独」でありながら、「井之頭五朗」とは正反対の食行動を実践する人間だからです。「井之頭五朗」は仕事で出向いた町で必ずお腹がへり、店を探して一人食事を楽しむのですが筆者は一人で外食することは滅多にありません。もちろん、大学に入ってフランス料理を勉強しようと思い、一人フレンチでランチした時代もありました。「井之頭五朗」は大変な大食漢なのですが下戸で、お飲み物はと尋ねられるとだいたい「ウーロン茶」と答えるような人物。大学に入学と同時にフレンチを食べ歩き始めた筆者もまた、当時はもちろんのことワイン無しで水を飲みつつ、フレンチを堪能しようとしていた訳です。この習慣はその後、ワインを飲み始めてもワインの意義をそれほど重視していなかった時代が十数年続くという、今から思うと後悔してもしきれないくらいのことなのですが、それもまた一理ありなのかもしれません。
 
 というのも、『世界のミシュラン三ツ星レストランをほぼほぼ食べ尽くした男の過剰なグルメ紀行』(ベストセラーズ、2017年)という本を書かれた藤山純二郎氏は二十八年間にわたり、一人で世界中のミシュラン三つ星のほとんどを制覇されたのですがその総額は6000万円とのこと。高名な政治家藤山愛一郎氏を祖父にもたれる藤山氏ですがご自身はサラリーマンとのことで、ある意味藤山氏も「孤独のグルメ」なのですが、やはり藤山氏もお酒は嗜まれないのです。つまり、もし藤山氏がワイン愛好家だったら、6000万円ではすまない、その倍近くはかかるのではないでしょうか。そうしたら、サラリーマンでは世界中を制覇とはいかないでしょう。
 
 料理だけを追求するなら、ワインはかえって邪魔になるかもしれません。三つ星はフレンチに限ったわけではないからです。ただ、筆者の場合は逆にワインに目覚め、1994年にパリに単身海外研究に出かけた際、一人で星付きのレストランに出かける気になれなかったというのが決定的な体験となりました。昼は毎日一人、気軽なビストロでランチをとっていたのですが。もちろん、ワイン無しで。これが何とも味気なく思えたのです。当時は珍しかった日本人シェフがオーナーの「レ・キャルト・ポスタル」(一区、マルシェ・サントノレ)でランチしていた際、隣のテーブルに身なりの良いサラリーマン四人組(男女二名ずつ)が着席するなり、メニュとワインリストを見ながら侃々諤々議論が始まったのです。君は何を食べるのか、それだったらどのワインがいいか、結果、各自が食べたいもの、さらに白・赤一本ずつボトルワインもチョイスして、食事が始まりました。話すこと話すこと。フランス語がそれほど堪能ではない筆者には何を話しているのか聞き取れないのですが、ともかく良く食べ、良く飲み、良く喋る。これがフランス料理の醍醐味なのだと確信しました。しかも、筆者は少食なのでパリでお皿を平らげたことが一度もありませんでした。
 
 そこで次年度以降、パリに出かける際は明治大学の学生に同行してもらい、二人で昼はビストロ、夜は星付きと毎日食べ歩きました。もちろん、昼も夜もワインをボトルで注文しました。ワインを注文すれば、食事代は倍かかります。こうして、元々外食好きではなかった筆者はワインの飲めるフレンチを原則として、それ以外の外食を行なわなくなってしまいました。それはまた、デセールを食するのを必須としますので、少食ということもあり、そのため炭水化物をとることもなくなってしまったのです。ご飯、パン、麺類など口にすることは家でもあまりなく、外食では皆無に近くなりました。従って、下戸で大食漢の「井之頭五朗」は筆者の対極にある人物で、横浜の洋食店で、ランチAの「ハンバーグステーキチーズのせ」に単品の「牛ヒレの生姜焼き」を注文。それでは満足しきれず、「ナポリタン」に「チキンのシャリアピン」まで追加注文し、見事に平らげるのを見て感心することしきり。自分であれば、数名で来店し、上記の皿を注文。ワインなど傾けながら、それぞれを一口ずつ味見して横浜洋食を堪能させていただくに違いありません。実際、年に一度は高校の同級生たちと開港広場前にある「スカンディヤ」に出かけるのを恒例としているくらいですので。
 
 では、どうして筆者は自身と対極にある『孤独のグルメ』に魅了されるのか。その理由はないものねだりというだけではありません。「井之頭五朗」の行動がパリで遭遇したあのフランス人サラリーマンたちと似ているからです。それは両者共に「選ぶ」ことに全神経を集中させているという点です。「井之頭五朗」は仕事の出先で必ずお腹がすきます。そして、「店を探す」。だいたいが初めて訪れる土地で店を探して彷徨うのですが、「今日はがっつり肉の気分だ」とか、「大阪に来たからにはお好み焼きだろう」とか、その時の気分で数ある店の中から食べたいものを決めるのです。もちろん、店には限りがありますし、他に店がなく、とにかくここにしようという時もあります。この際のポイントは必ず立ち寄ったその土地で店を探すことです。それは空腹に耐えられないからなのでしょう。しかし、普通であれば、隣駅の方が栄えていたらそちらへ移動する、あるいは自分のテリトリーの店まで我慢するといった行動をとるのではないでしょうか。見知らぬ町で一度も行ったことのない店に入るというのはなかなか勇気のいることです。しかも、決して外れることがありません。これは原作やテレビ、マスコミのお決まりで、この店は外れだ、不味かったといったら掲載させて、取材させてくれないでしょうから、必然的にどの店も美味しいに決まっているのです。いくら「井之頭五朗」が秀逸なグルメであったとしても、ネットで調べるでもなく、勘で入る店がすべて大当たりなどということはあり得ません。まあ、外れた店のことは漫画にしないと考えれば筋は通ります。つまり、「井之頭五朗」も日々試行錯誤しているのですが、漫画で取り上げるのは美味しかった店だけなのだという解釈です。しかし、いずれにせよ、どの店に入るか毎回決断に迫られ、潔く他の可能性を捨てて、初めて入る店に賭ける。そう、まず「店を選ぶ」という行為が存在します。
 
 この際、SNSが発達した現在、私たちは『ミシュラン』といったガイドだけでなく、「食べログ」などネット上で数々評価・評判を参考に店選びをすることが出来ます。それに対し、「井之頭五朗」はスマホで調べることをしません。この「行き当たりばったり」感こそ、「孤独のグルメ」の醍醐味なのでしょう。私たちは過剰な情報に左右されつつ、店選びをしていないでしょうか。それは自分で「選んで」いるようで、実は「選ばされて」いるのではないでしょうか。限られた店の中からですが、「自分で選ぶ」という自主性を「井之頭五朗」は体現していると考えられます。
 
 こうした「自主性」=「主体性」は店に入ってから、何を食べるか決めるまで時間がかかることにも明白です。メニュや品書きをじっくり隅から隅まで確認し、周りの常連客が何を食しているかにもアンテナを張り、わからない料理は店の人に聞く。初めての店ですから当然と言えば当然なのですが、昨今のフレンチなどは「おまかせコース」しかありませんから、選ぶ必要などありません。あるとしても皿の数が多いか少ないかくらい。店の客がみんな同じものを食べている。店によっては時間まで合わせろという。これって、給食の時間かと思ってしまうほどです。
 
 「井之頭五朗」は大食漢ですので、定食を食べた後、さらに別の料理や麺類まで何種類も頼んでしまう。昼食とはいえ、毎回数千円はかかると思われます。番組の尺を持たせるにはラーメン一杯をそそくさと食べて終わりではあまりに味気ないからでしょう。これもまた、あまり現実味がないというか、「虚構のグルメ」ではありますが、演じておられる松重氏は実際食されているというので驚きました。同じテレビ東京には『大食い王決定戦』といった名物番組もあり、それを彷彿とさせるものがあります。しかし、ラーメン一杯とて、選ぶのは真剣。昨今はトッピングが多々ありましょうからさらに迷います。「選ぶ」という点からすれば、流行りのフレンチより一杯のラーメンの方がずっと主体的選択を行なっており、「美食」を実践していることになるのではないでしょうか。
 
 「井之頭五朗」ももちろん、料理の選択のセンスに長けておいでです。例えば、新宿区大久保にある「淀橋市場」の中にある食堂で朝食を食べることにした際、生姜焼き定食を豚ロースにするか豚バラにするか、筆者なら迷わず、こうした定食屋では「豚バラ」かと思ったのですが、五朗氏もまた躊躇せず「豚バラ」を選んでおいででした。
 
 正直に申し上げれば、筆者にとって「美食」とは「選択」することに尽きると思われます。もちろん、店選びも大切です。しかし、グランメゾンではアラカルトが当たり前だった時代、メニュの中から、オードブル、メイン、デセールを選んで組み立てる。ワインリストの中なら、一本のワインを選び出す。それは自分の好みだけではなく、予算や体調など様々な要因を総合的に鑑みて、これにしようと決定するそのプロセスこそ、五感と頭脳がフル回転するエキサイティングな時間なのです。決定してしまえば、あとは堪能=消費するだけなのですが、これはやはり試行錯誤。パーフェクトはあり得ません。同行者の料理を味見して、そちらの方が美味しいと思うことは多々あり、ワインも別の銘柄にすればよかったと思うことしきりです。
 
 『孤独のグルメ』の「井之頭五朗」の美味しそうに食べる姿、次から次へと皿を平らげていくその食べっぷりの良さがこそがこの番組の醍醐味なのでしょうが、一人飯なので黙食なのですが、心の声が極めて多弁で料理について語る語る。この「語り」がなければ、場がもたないかと思われます。つまり、「食べている」時間を映し出すことこそがこの番組の主眼で、「選ぶこと」は二次的ともいえます。それに対し、同じテレビ東京で1月16日からスタートした『黄金の定食』はまさに「選ぶ」ことをテーマとしたグルメ番組で、「美食」にとって「選ぶ」ことの大切さを再確認させてくれるものです。会員用では『黄金の定食』を例に「選ぶ」ことについて、さらに考察してみたいと思います。
 

目次

著者Profile

関 修(せき おさむ)

フランス現代思想
文化論
(主にセクシュアリティ精神分析理論/ポピュラーカルチャースタディ)
現在、明治大学法学部非常勤講師。
2014年、明治大学で行われた「嵐のPVを見るだけの授業」が話題となった。
 

経歴

1980年:千葉県立船橋高等学校卒業
1984年:千葉大学教育学部卒業 
1990年:東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程単位取得満期退学、東洋大学文学部非常勤講師 
1992年:東洋大学文学部哲学科助手
1994年:明治大学法学部非常勤講師  、他に、岩手大学、専修大学、日本工業大学などで非常勤講師を務める 
 

著書

『挑発するセクシュアリティ』(編著、新泉社)
『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』(編著、夏目書房)
『美男論序説』(夏目書房)
『隣の嵐くん~カリスマなき時代の偶像』(サイゾー)
『「嵐」的、あまりに「嵐」的な』(サイゾー)
 

翻訳[編集]

G・オッカンガム『ホモセクシュアルな欲望』(学陽書房,1993年)
R・サミュエルズ『哲学による精神分析入門』(夏目書房,2005年)
M・フェルステル『欲望の思考』(富士書店,2009年)
 

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