美食批評への誘い  Vol.51~55

クリティーク・ガストロノミック

 
フランス現代思想家

関  修(せき おさむ)

第五十一回
郷愁の静岡への旅
――美食の原点へ――

 筆者の年代ですと高校生にもなるとちょっと文学をかじった者なら、ビルドゥングスロマン(Bildungsroman、教養小説)やらシュトゥルム・ウント・ドラング(Strum und Drang、疾風怒濤)といった言葉に触れ、心震える思いをした記憶があるかと思います。旧制高校の学生たちのドイツ語の名残。英語一辺倒になってしまった現在では想像もつかないことかと思いますが、当時の医師はカルテ(Karte)を文字通り、ドイツ語で書いていたのですからその教養の違いは歴然と言えましょう。東大生の知識がクイズ番組用といった嘆かわしい現状を憂うのは老人のひがみなのでしょうか。
 
 さて、そのような単語の中に、ハイマートロース(Heimatlos)あるいはデラシネ(déraciné)といった言葉があります。前者はドイツ語で「故郷喪失者」、後者はフランス語で「根無し草」と同じ意味を指しています。そして、かく言う筆者もまさしく、この故郷なき者に他なりません。しかも、今は亡き父も母も実家は共に静岡市内にありながら、筆者は一度もこの駿府の街に住んだことがないのです。都市銀行に勤めていた父は静岡支店で入行したものの筆者が生まれたときはすでに東京に転勤になった後で、その後、長野県の上諏訪、神戸と転勤し、筆者の高校受験に合わせて再び東京に戻って来たという次第。次男だった父は神戸にいるとき、現在筆者の住んでいる千葉県に土地を買い、社宅が船橋だったこともあり、転勤後まもなく家を建て、両親共にそこで一生を終えたのです。
 
 つまり、筆者にとって、静岡とりわけ静岡市は自分のルーツでありながら、一度も住んだことのない土地。しかも、筆者が最も敬愛する人物が母方の祖父、斎藤善次郎です。県の酒造組合に勤め地元の政財界に顔が広く、アマチュア野球の審判として甲子園への県大会の決勝戦の主審を務めるなど、生前静岡では名士であったこの祖父こそ、筆者の美食をはじめ、クラシック音楽愛好といった性格形成に重大な影響を与えたその人である以上、「静岡」という地への憧れは計り知れないものがあるのです。
 
 この連載でも取り上げてきましたが、筆者は毎年九月上旬、二泊三日で旅行に出るのを恒例行事としています。昨年は大学の研究の一端もあり、仙台に出かけました。今年は台北に行こうと思ったのですがこのコロナ禍で海外旅行が出来ませんので、なかなか実現出来なかった「静岡」への旅を計画した次第です。車を出してくれると申し出てくれた友人があり、静岡市内だけではなく、筆者にとって訪れてみたい静岡を巡ることにしました。もちろん、それは筆者の旅行である以上、これも例年通り、美食の旅でもあります。公開用では旅の前半を、会員用では旅の後半、『ゴ=エ=ミヨ』を参照した静岡での美食探訪を記してみたいと思います。
 
 さて、筆者はまず、伊豆に行こうと思いました。温泉やリゾートの苦手な筆者にとって、伊豆はいまだかつて訪れたことがなかったのですが、父方の祖父、関宇之吉が伊豆出身だと聞かされていたこと。また、いつぞやテレビの旅番組でみた伊豆の宿に一度行ってみたいと思ったからです。それは土肥温泉にある「頬杖の刻(とき)」という洒落た名前のオーベルジュです。全十室ほどの小さな館で、道挟んで向かいは旅人岬、その向こうに駿河湾を一望できるという絶好のロケーション。土肥港の中心からちょっとだけ離れたポツンと一軒家。部屋に露天風呂があり、食事はイタリアンとフレンチの間といったところ。伊香保のワイン合宿で一度も大浴場に行ったことのない(貴賓室にはジャグジーがありますので。しかし筆者以外は誰も部屋のジャグジーに入ろうとせず……)筆者にはピッタリの宿という訳です。
 
 当初、翌日はフェリーで対岸の清水港に渡り、静岡入りしようと思ったのですが、出航時間と下船にかかる時間を鑑みますと、船に乗っているのは一時間ほどですが、三時に待ち合わせがあり、その前に昼食をとる時間が無くなりそうだったので湾沿いに陸路で向かうことにしました。行きは沼津でのランチに手間取り、バイパスを使って土肥に向かいました。トンネルに次ぐトンネルで到着は早かったのですが、あるのはトンネルと山ばかり。人気のない景色でした。そこで今度は旧街道を。同じ山ですが、まさしく川端康成の『伊豆の踊子』の世界。とりわけ感慨深かったのは大仁町を通ったことです。この町にはかつて「東洋醸造」がありました。「富久娘」という銘柄の日本酒は旭化成に合併後も、現在はオエノングループ下ですが健在です。この「東洋醸造」は祖父が懇意にしていた酒屋で、戦後いち早く抗生物質の生産を行なったことで有名です。実は斎藤の一番末っ子の叔母(母が兄弟で一番年上で一男三女)は終戦の年に生まれたのですが、まだ幼い時感染症にかかり、助からないと言われたそうですが、祖父が東洋醸造に掛け合って当時入手困難だったペニシリンを分けてもらい一命をとりとめたと母から聞かされたことがあります。旅の端々に自分に縁のある「食」の痕跡を見て取る。これも今回の旅の重要な意義だと思われました。
 
 三島に出て、国道一号を順調に静岡へと向かい、昼食はフェリーに乗ることも考えていましたので清水で鰻を食そうと考えました。というのも、自分は子供のころ、静岡で鰻を食した記憶がないからです。鰻は静岡でも浜松の名産かと思いますが、静岡県では何処でも鰻はそれなりの名店があるようです。斎藤の家は祖母が料理上手でしたので、晩は必ず家で皆が揃って祖母や叔母が作ったものを食しました。店屋物=出前を取ることは皆無だったと思います。寿司でさえ、毎日出入りの行商のおばさんが新鮮な魚を持って家を訪ねてきましたのでそれを買って作っていました。外食というのは祖父と昼間、繁華街に買い物に出かけた時、お決まりの「グリル中島屋」でのランチだけだったと記憶しています。母もその習慣があったのか、外食を好まず、お客様が来た時くらいでした。店屋物を取ることはやはりほとんどなく、それこそ鰻くらいだったと思います。
 
 という訳で、静岡で初めて鰻を食する店を清水近辺で探したのですが、絶好の店を見つけました。鰻専門店ではなく、「芳川(よしかわ)」という割烹料理店です。東海道沿いにあり創業180年余り。清水の次郎長や西郷隆盛も訪れたことがあるという由緒ある店で店構えも立派。鰻料理を得意とするとあり、これは訪れるしかない、と。しかも、旧東海道に入り、店に行く途中に筆者の好物の「追分羊羹」の本店があるではありませんか。その日は昼食の後、安倍川餅を食べに出かけるのですが、「石部屋(せきべや)」の安倍川餅はお土産用こそあるものの日持ちがせず、自宅に買って帰るのに必ず買うのが日持ちのする「追分羊羹」なのです。竹の皮に包まれた甘さ控えめの羊羹は竹の香りが移って実に美味。いつもは駅で買うのですが折角なのでここは本店で買うことに。街道沿いに小さな構えの鄙びた木造の店が。歴史を感じながら、「芳川」へと向かいました。
 
 「芳川」も街道沿いの門構えは予想以上にこじんまりしたものでしたが、中に入ると奥行きが長く、自慢の中庭の一望できる立派な個室に通されました。座敷ですがテーブルで、席料を取られないのが不思議なほどゆったりした空間で二人きりで食事出来たのは贅沢の限り。また、このコロナ禍では有難い環境でした。筆者はこの後の安倍川餅と夜のフレンチのディナーに備えて、蒲焼きと肝焼き、肝煮に日本酒を少々。友人はお薦めの鰻重定食を。二人で一万円ほど。時空にお金を支払う「美食」として、これは安いくらいで充分堪能させていただきました。次回の静岡訪問の際は旅の最後に芳川で鰻を食べて帰宅の途に就こうと思った次第です。
 
 さて、静岡駅での三時の待ち合わせまでまだ少々時間がありそうなので、珈琲中毒の筆者は珈琲専門店を駅の近くに探しました。どうも、繁華街よりちょっと離れたところに良さげな店がある感じ。その中から静岡鉄道の始発駅、新静岡駅から一駅目の日吉町駅すぐの「エートスコーヒーロースターズ」に出かけました。ここは父の実家のある音羽町の近くで筆者も歩いたことのある場所でした。ガラス張りで内装は白。今流行りの焙煎が見える形の珈琲店で働いているのは女性だけ。ここは東京?と疑うほどで客も若い女性ばかり。彼女たちのお目当てはラテ系とプリンやカヌレといったスイーツらしい。男性二人の筆者たちは異邦人のように見られました(笑)。ともかくもエスプレッソをダブルで註文。長居は無用とキュッと飲み干して、ここはスマートに退散。真っ当なエスプレッソに思わず微笑みました。静岡もなかなかやるなあ、と。
 
 コーヒーブレイクして、ちょうど三時ちょっと前に南口のロータリーに到着。筆者贔屓の元代々木町「シャントレル」の中田雄介シェフの乗られた新幹線の到着を待つ。中田シェフも御実家が静岡市内で、今夜の「カワサキ」でのディネに同席を希望された次第。その前にどうしても筆者は「石部屋」の安倍川餅を食していただきたかったので早めにお越しいただいたという訳。というのも、母の実家、斎藤家は弥勒町にあり、そこは安倍川橋のすぐ手前を左に入ったところだからです。子供の頃、祖父に連れられ従弟たちと安倍川沿いを散歩して、帰りに橋のたもとの「石部屋」に寄るのが恒例で、筆者はここで「からみ餅」を食べるのが何よりの楽しみだったのです。「石部屋」は安倍川餅の元祖と言われ、現在もその風情ある佇まいは昔のままで土間に上がって食べることも出来ます。品書きは安倍川餅とからみ餅のみ。お持ち帰りできるのは安倍川餅だけでからみ餅は店でしか味わえません。からみ餅は大根おろしで食べるものを指すと皆さん言われますが、筆者の「からみ餅」はあくまで石部屋のものでそれは「わさび醤油」で食するものです。餅を白玉くらいの大きさにして、湯に浮かべ、それを湯切りしてわさび醤油につけて食す。きな粉が苦手だったということもありますが、安倍川餅に興味がなく、ただただこの「からみ餅」が何よりの美味だと筆者には感じられたのでした。もち米の甘さに、醤油の塩味と旨味、さらにわさびの辛みが絶妙にマッチしてシンプルながら飽きの来ない美味。筆者の美食の原点はこの「からみ餅」にあると言っても過言ではありません。信頼する中田シェフが静岡市出身というのに石部屋に行かれたことがないと聞き、すると当然の如く「からみ餅」は食されたことがないのは残念でならず、お誘いした次第。祖父がいつもそうしていたように、お土産用の安倍川餅を買って叔母のところへ。
 
 母の実家は道路沿いに離れの玄関があり、隣に昔貸家を二軒、今はその跡を駐車場にして貸しています。そして、路地を入った奥に母屋の玄関があります。現在は離れに母の弟で長男(故人)の嫁である叔母が一人で住んでおり、母屋には従弟一家が住んでいます。駐車場に車を止め、歩いて数分の石部屋へ。帰りに仏壇に線香をあげに叔母のところに寄りました。祖父、祖母、叔父、そして若くして亡くなった従弟(長男)の遺影を眺め、感慨深いものがありました。筆者は外孫ながら斎藤家の初孫だったので、祖父はたいそう可愛がってくれました。叔父は合同酒精に勤め、叔母とは職場結婚だそうです。叔父も小学生だった筆者にワインのパンフレットなどをよくくれたものです。合同酒精はブルゴーニュの銘酒、モノポールのクロ・ド・タールを所有していたモメサン社の正規代理店でしたので、ワインの基礎知識の冊子などを作っていたのです。筆者の「美食」への傾倒は、今は亡き両親と祖父、そして斎藤家の方々の影響といって良いでしょう。帰り際に叔母が母の好物だった「葵煎餅」を仏様に供えてと持たせて下さいました。シェフと友人にもお土産にと。葵の御紋の入った瓦煎餅が名物の「葵煎餅」もまた、ご当地の「美味」の一つです。
 
 中田シェフをご実家までお送りし、駅前のホテルにチェックイン。次回は静岡市に二泊するつもりなのでホテルは熟慮すべき点かと。実はすでに候補を見つけております。四半世紀前のパリへの旅ではまずホテル選びがいの一番だったように、旅における宿のチョイスにこだわるのが実は自分流なのです。この後は七時に「カワサキ」で待ち合わせ。シェフは同級生に会ってからレストランへと来られるそう。我々は一休みして、街を散策してから「カワサキ」へと向かうことに。いよいよ、美食の旅のメインイヴェントがやって来ます。では、続きは会員用にて。
 

第五十二回
脱ミシュランに向けて
――令和版『エピキュリアン』の必要性――

 十二月は東京のレストランがざわめき立ち、日本中のグルメが固唾を飲んでその日を心待ちにしています。そう、それは『ミシュランガイド 東京』が更新されるからです。今年は10日に発売され、その数日前に結果が公表されています。2008年版から開始され、筆者もまた初回から購入し続けています。開始時に『日刊ゲンダイ』紙の「ランチで使えるミシュラン」の取材と執筆を依頼され、フレンチを中心に星付きの十店ほどを食べ歩きました。和食もと言われましたが、専門外とお断りし、記事は記名にしていただくことにしました。そういった意味では筆者にも縁のあるレストランガイドですが、筆者は現在の『ミシュラン』には批判的です。
 
 2004年にジャン=リュック・ナレが主幹になって以来、世界各地での展開を積極的に行い、かつ料理重視の評価に舵を切ったからです。筆者は料理、ワイン、サーヴィスの三つの要素が対等でなくてはならず、それらの三位一体度こそ、レストランの評価基準であるべきという「レストランの正三角形」を提唱しておりますので、そうした料理偏重の評価には異議を唱えたいと思います。かつて、『ミシュラン』はいの一番にトイレを調査するという都市伝説があったくらい「レストラン」というものの在り方を重要視していました。それは、このガイドがまずは車での旅行先での快適な「宿」を紹介することから始まり。その後、その宿の食事がとりわけ美味しいものに星が付けられ、それが独立してレストランの三つ星評価へと発展していったからです。料理が主ではなく、ある空間でいかに快適な時間を過ごすことが出来るかが第一で、それが宿なのかレストランなのかの違いがあるだけで、評価基準は同じなのです。ナレ以降の『ミシュラン』は元々の主旨に反していると言えましょう。
 
 しかも、とりわけ『ミシュラン東京版』にはさらなる問題があります。星付きの店とビブグルマンの店しか掲載されず、本来大多数を占める「どちらでもない」店がまったく評価されていないという点です。「パリ」版はもとより、同じアジアの「台北」、「ソウル」版などもこのどちらでもない店が主に掲載されています。それはひとえに、パリであれば、フランス料理、台北であれば中華料理と軸になる料理は一つだからです。それに対し、東京はフランス料理と日本料理と軸が二つあります。しかも日本料理には懐石の他に寿司、天ぷらなど星が取れる下位のジャンルが多々あり、結果、星の数が半端ではなくなってしまう。その上、料理偏重の煽りを受けて、ラーメンのようなジャンルにも星を与えてしまうのでいよいよ星付き店は増えるばかり。一方で、ラーメン、餃子、カレー、お好み焼きと言ったいわばB級グルメも取り上げるので、フレンチの星なし店など掲載する余裕がなくなってしまうのです。元来、ビブグルマンは同じフレンチでも星付き高級店、通常のレストランと比して、安価で楽しめるビストロなどで美味しい店を紹介するための印だったはず。ところがラーメン、餃子、カレーなどは1000円くらいですからすべてビブグルマンになってしまう。つまり、東京版のビブグルマンは本来のビブグルマンの機能を果たしていないのです。ちなみにソウル版は、ジャンルは東京に似て多彩ですが、基本的にそれなりにお金のかかる店を基準に選んでいますので、ビブグルマンの数は抑えられていてバランスの良いものになっています。
 
 という訳で、筆者は「東京版」のミシュランには多大な期待をしておらず、傍観者的に眺めていたというのが実情です。ところが今年はそうも行かなくなってしまったのです。この連載にも前回をはじめ度々登場する筆者の贔屓にしている中田雄介シェフの店「シャントレル」が星を落としてしまったのです。筆者は長年にわたり月一に近いペースで通い続けていますので、この一年で何処が悪くなったのか全く理解できないのです。それどころか、以前は不在だったソムリエに香西氏が加わり、星を取った当初よりはるかにレストランとして充実していると感じています。正直、まったく納得が行きません。
 
 そこでフランス料理の一つ星店の推移を2020年版と比べてみました。今回新たに星を取ったフランス料理店は三店。星を失ったのはシャントレルを含め七店。その内、三店は閉店でした。その中に芝の「クレッセント」があったのは驚きでした。一九五七年創業の老舗中の老舗。「三日月画廊」などと呼ばれ、筆者には高嶺の花で初めて訪問した際は緊張したものです。吉田茂の愛用した個室なども拝見する機会も得ました。残念です。ということは、実質上降格は四店で、新たに加わった店と入れ替わったと考えることが出来ます。
 
 さらに筆者を複雑な思いにしたのは、今回星を取った店の一つが良く知る店だったことです。それは南青山の「ランタンポレル」で、オーナーの古賀氏はソムリエで優秀なセルヴィス。それこそ、上記の「ランチで使えるミシュラン」の取材で代官山の「レ・ザンファン・ギャテ」に伺った際、支配人でいらしてそれ以来の知己です。筆者のHPワイン会で、貸し切りで会を開かせていただいたこともあります。昨年、シェフがまだ二十代の金川氏に代わり評価を上げたようです。金川シェフの料理をまだいただいたことのなかった筆者は、ランタンポレルが星を取るであろう情報を得ていましたので、十一月に伺う機会を作った次第です。
 
 結論から申し上げますと、金川シェフの料理は優れてはいるもののまだ発展途上といった感じでした。アイディアは素晴らしいのですが技術が伴っていない感じがしたのです。スペシャリテだと言って出された「カリフラワーのパイ包み焼き」はナイフを入れるとパイとカリフラワーがバラバラになってしまい食べにくい。パイを薄くすることにこだわりがあるようでそれは正しいのかもしれませんが、そのためパサパサのパイが散乱してしまう。バターをふんだんに使ってクロワッサン生地のような弾力を出すとか何か工夫が必要か、と。また、さらなるスペシャリテ「サバのコンソメ」も美しい上品な仕上がりで感心したのですが、淡白過ぎる上に量が多いので飲み切れない。タッスにして、もう少し味を決めた方が良いかと思った次第。ペアリングでは白ワインを出す頃なので何を出すのか古賀氏に尋ねると、ジュラのサヴァニャンだとテイスティング用に持参下さった。ACレトワール、フィリップ・ヴァンデルのもの。試飲して、これは正解だと思ったのと同時にちょっとズルいとも。このワインはシェリーと同じく、表面に酵母の膜が張ることで独特の風味が付くのです。つまり、コンソメと一緒にマリアージュするとシェリー風味のコンソメと同じ食感になるわけです。つまり、コンソメだけだと引き算で風味が足りないことになる。筆者は赤のブテイユを開けていたのですが運よく古酒だったので、熟成香とその味わいがコンソメにプラスに働いて、相乗効果を生んでいました。ちなみにその日、チョイスしたワインは今は無くなってしまったドメーヌ、モワンヌ=ユドラのシャンボール=ミュジニー、プルミエクリュ、レ・シャルム、1999年でした。心配だったのは酸の強い白を頼んでしまった方には、このコンソメは合わないだろうということです。極めてデリケートが味わいなのでワインが強過ぎてしまう。
 
 このように改善するべき点は多いと思うのですが、セルヴィスがオーナーのフレンチが星を取るのは料理偏重のミシュランにあっては喜ばしいことです。筆者は四半世紀前のパリでタイユヴァンを三つ星の中でも好んでいました。オーナーの故ジャン=クロード・ヴリナ氏が、食事が終わった頃を見計らい、コニャックの瓶を片手に現われ、ディジェスティフのサーヴィスをしながら、「今日の食事はいかがでしたか」と尋ねてくれた、その一連の立ち居振る舞いへの感激を忘れることはありません。レストランでの食事の喜びはセルヴィスの優秀さにかかっています。古賀氏の素晴らしいセルヴィスに、金川シェフの可能性を秘めた料理。星を獲得したのを機に、ますます充実したレストランへと進化=深化していただきたいものです。
 
 さて、問題のシャントレルですが、『ミシュラン』への思いはやはりフレンチの料理人にとっては一方ならぬものがあるのは当然。中田シェフは随分早い時期から今年はダメそうだとこぼしていらしたので。筆者の教え子で按田餃子店主、按田優子氏など、餃子店で最初にビブグルマンを獲得以来ずっと維持しておられるのですが、「まあ、ミシュランに載ると店の知名度も上がるし断るすべはないので」程度にお考えのようで、実にあっけらかんとしたもの。まあ、彼女の人柄もあるのですが。フレンチシェフはそうも行かず、有名なのは「コートドール」のロワゾー氏が三つ星降格との噂にいたたまれず自殺してしまった語り草になっている悲話。実際のところ、降格はなかったという尾ひれがついて。ピュドロフスキは拙訳で、そのガセネタを吹聴したのはフランソワ・シモンだと名指しで批判しています(52頁)。ロワゾー氏の自殺は彼の躁鬱気質も一因だったとのことですが、筆者はある種の燃えつき症候群だったのではないかと思っています。というのも、『ヨーロッパ天才シェフ群像』(学研)で、「五十五歳になったら、きれいさっぱり引退さ。そしたら、女房といっしょにゆっくり世界を旅してまわるのさ。ずっとこれまで頑張ってきたご褒美にね」とインタヴューに応えているから。取材は199092年にされたとあり、ロワゾー氏が自殺したのは2003年、52歳の時でした。あと三年だったのに……。
 
 薄々わかっていたとはいえ、結果公表の日はやっぱり筆者も複雑な思いがしました。案の定、中田シェフからメールが来て、ダメだった報告とその旨、Facebookに投稿したとのこと。ちょうどFacebookを始めたばかりだった筆者は慌ててチェックしました。中田シェフからは心機一転頑張ります、とのメッセージで一安心。多くの方から応援メッセージが寄せられていました。中には師匠のレジス・マルコン氏やシャブリの有名な作り手、シルヴァン氏のようなフランスからのメッセージも散見されました。店の状況も気になりましたので、一足早いクリスマスと1222日に訪問し、食事しました。ソーシャルディスタンスを取って、全十二席ほどでの営業でしたが満席でした。次の日からのノエルのディネをはじめ、年内は満席とのこと。『ミシュラン』の一件を知ってか知らずかわかりませんが、まずは何とか年は越せそうで良かったです。さらに、一月も様子を見に出かけようと予約を入れた次第です。果たして、『ミシュラン』効果はどのように働くのか、推移を見守る必要があり、貴重なチャンスを得たと考えております。
 
 他人事と思っていた『ミシュラン』ですが、全幅の信頼を置いているレストランが星を落とされたということは、顧客である筆者の顔に泥を塗られたも同然で納得が行きません。何度となく申してきましたように、今、少なくとも東京に必要なのはフランス料理に特化した格付けガイドではないでしょうか。それはすでに四半世紀前に確かに存在していたのですから。そう、故見田盛夫氏による『エピキュリアン』です。会員用では、『エピキュリアン』の現在形に関する筆者の考えとその具体化へのプランについて書かせていただく所存です。
 

第五十三回
時短営業下でのフレンチ
――食事の仕方について考える――

 二〇二〇年はコロナに始まり、コロナに終わるといった一年でした。しかも、クリスマスから年末にかけて人出は思ったより減らず、年明けには東京都の一日の感染者が二千名を超える日が出るなど第三波はこれまでにない大規模の流行となりました。そこで、政府は一月七日に首都圏の一都三県に「緊急事態宣言」を発令。その後、関西圏や福岡など大都市圏に宣言の拡大を見ることとなりました。第一波の主たる感染源が「夜の街関連」といわれた歌舞伎町などのいわゆる「水商売」の店舗だったのに対し、今回矢面に立たされたのは「飲食業」の方たちでした。クリスマス前から夜は二十二時までの営業を要請させていたのが、緊急事態宣言によって二十時までとさらに二時間早く閉店することが要請されたのです。
 
 前回の連載で筆者は『ミシュラン』の格付けの件で、星を落としてしまった懇意にしているレストラン「シャントレル」をクリスマスディナーが始まる前の日、十二月二二日に訪問したことを書かせていただきました。その際もすでに営業時間は夜十時までだったのですが、店は満席。そして、年内の営業も満席と聞きました。筆者はその日、開店時間の十八時に予約を入れ来店、二十二時の閉店時まで食事を楽しみました。通常ですと二十時半ラストオーダー、二十三時閉店ですので、その際は開店早々から二十三時過ぎまで店にいることもあります。
 
 さて、筆者は年末に伺った際、年明け一月にも伺うことを約束し、一月二〇日に予約を入れました。また、同じ日食事されていた他の顧客の方も年明け最初の開店日、一月八日に予約を入れておられました。ところが一月七日に緊急事態宣言が発令されたのです。さて、どうなるかと思いきや、翌八日、店のFacebookに中田シェフのメッセージが掲載されました。それは二十時までの時短営業に即した営業形態の変更を謳ったものでした。それは「チョットシャントレル」と銘打った「緊急事態宣言の中少しでも皆様に楽しい食事を楽しんでもらいたい気持ちからのディナーのみのショートコースのご案内」で、通常のフルコースの中からグループごとに同じものを「できれば三品以上」選んでいただく「ムニュ・オ・ショワ」というスタイル。六千円くらいからになるという価格設定も明示。もちろん、通常のフルコースも「大歓迎」でその場合は十七時半から開始とさせていただきたい。そして、ラストオーダーを十八時半、二十時閉店になります、と。「シャントレル」はランチは土日のみですのでそれは今まで通りで、ディナーがすべてこの「チョットシャントレル」、「フルコースのメニュから(三品以上を)チョイスする」形になったのです。
 
 他のフレンチはどうかと知己の店を確認したところ、おおむね何処も二十時までの時短営業でそれに合わせたディナーのスタイル変更の工夫をされていました。十七時開店にされていた店もあり、時短営業に合わせた特別フルコースのみを提供する店など、どのレストランも限られた時間で最良の食事を楽しんでいただけるようできる限りのことをされているのがよくわかりました。思えば、昨年の最初の緊急事態宣言の際はほとんどのフレンチは休業し、テイクアウトのみ行なうのが通例でした。「シャントレル」も同様で、ただ月に一度くらい顧客のためにランチを提供しました。筆者もランチに伺い、帰りにテイクアウトを購入して、いつもとは違う料理を部屋で堪能したのが昨日のようです。
 
 今回、多くの店が時短営業に踏み切ったのは経済的な理由だけではなかったと思われます。第一波はコロナという病気がまだ得体の知れない部分が多く、どう対処して良いかわからず世間一般が事実上のロックダウンに近い状況を作り出していたのに対し、今回の第三波では病の正体も多くのことが判明し、感染対策をきちんと行えば蔓延を防ぐことは可能であると考えらえるようになったからです。もちろん、それがどの程度正しいかには疑義が生じて当然です。不要不急の外出を控えよという要請も、時短に次ぐ時短で夜遅くの外出に特化されているように感じられ、ウィークデーの昼間など繁華街の人出は変わらないようですし、政府がランチも要注意などと喧伝しても、時短営業を認めている限り、結局は「感染対策を徹底しての営業」というのがコンセンサスであると考えざるを得ません。
 
 さて、筆者は十二月二二日の会食以来、都内はおろか、食料の買い出しに近くのスーパーかコンビニに出かける以外の外出を控えて年を越え、一月二〇日が今年初めての都内への外出となる状況にありました。そこに一月七日の二度目の緊急事態宣言。しかし、「シャントレル」の時短営業の告知を受け、一月二〇日をキャンセルするという選択肢は筆者には思い浮かびませんでした。確かに千葉の片田舎から都内まで電車で移動することを思えば、感染の不安がないと言えば嘘になります。罹患するというのは確かに確率の問題かもしれません。しかし、個々人に起こっているのは毎回シリンダーを回転させるルールのロシアンルーレットのようなもので、一度目の外出で感染する人もいれば、何回外出しても罹らない人もいる。楽観することはありませんが、充分注意して予定通り出かけようと。そこで、予約を十七時半からに変更し、フルコースでお願いすべく連絡を入れました。折り返し、中田シェフから電話があり、今回の措置につき意見を聞かれました。筆者としても要請通りの時短営業が正解で、前回のように過剰な休業までする必要はない、と。ただし実際、客が入るか入らないかは別として、です。あと、通常であれば、誰もがお任せコースを頼むので問題ないのですが、「チョットシャントレル」の場合、フルコースのお客様の席の確保を確実なものにしつつ、即ちある種のアドヴァンテージを持たせつつ、当日ふらっと訪れるようなお客様もウエルカムする即ち敷居の高さを感じさせないようにしないといけないでしょうから、その辺の対応に配慮する必要があるだろうと答えさせていただきました。
 
 食事に際して、筆者の事前の心配は料理よりもワインでした。筆者は必ずボトルで頼む派ですので、二時間半で飲み切ってしまうにはどのようなワインを選ぶべきか、これで頭を悩ませました。いつもは四時間以上かけて空けるのですから、アペリティフのグラスシャンパーニュはやめて、ボルドーの数年経った最初の飲み頃のワインであれば、飲み応えもあって、短時間でも充実感があるのではないか、とか。逆に、古めのブルゴーニュでサクッと飲み切ってしまっても良いのかもしれないと考えたり。ただ、それだと物足りないのかなあ、とも。そんなこんなでHPに掲載されているワインリストを眺めつつ、あれこれ迷っているうちに当日を迎えてしまいました。
 
 平日の十七時半でしたので、当然と言えば当然のごとく他に客はおらず、いつもの一番奥のカウンターに。ただ、連れの隣に大きなアクリル板でしきりがつけられていました。これは隣に誰か来るのであろう、と。二時間半しかないと思うとアペリティフはやめようと思ったのですが、ワインリストを眺めていると手持無沙汰でシェフに薦められるままにいつも通りにグラスのシャンパーニュを。それでもなかなか決まらず、シェフに相談して、リストにないヴォルネを出して下さったのですがブショネで、結局、ローラン・ピヨの「ポマール プルミエクリュ、レ・シャルモ 2004年」に落ち着きました。今年最初なので、自分としてはちょっと奮発しました。ピヨのポマールはリュジアンの2001年は飲んでいましたので、大体の予想はついていたのですが、結果オーライでした。2004年はヴィンテージ的にはイマイチだったので、ピヨのこのレ・シャルモは上手に造られていたと思います。確かにポマールにしては重厚さに欠けるものの、その分綺麗な造りで、アフターに伸びやかさもあって、スムースに飲み進めることが出来ました。適宜、シェフをはじめ、店のスタッフにパール・デザンジュ(天使の分け前、お裾分け)して、デセール前にはブテイユは空になっていました。最後まで落ちることなく、美味しく飲み切れたのは幸いでした。
 
 さて、肝心の料理ですが、いつもと同じ値段で品数を減らしてもらい、量より質でコースを構成していただきました。アミューズ、キノコのお茶はいつも通り、オードブルがワカサギのフライ、ホタテ貝のマリネ野菜添えの二皿、魚料理が白子のポシェトマトとセリのソース、メインが尾長鴨のパイ包み、そしてデセールに苺のミルフィーユ。最近の中田シェフの魚中心のコース仕立てでした。メイン以前の料理そのものは軽めなのですが、白子の濃厚なとろけるクリーミーさにトマトの酸味とセリの苦みが絶妙にマッチして、存在感のある皿に仕上がっていました。メインは何日か前、シェフがFacebookにフィユテ(パイ生地)を作ったので「何を作ろうかな」とアップされていたので、「マリア・カラス」とコメントしたのを参考にされたのでしょう。
 
 「マリア・カラス」は仔羊とフォアグラをパイ包みにしたものでその名の通り、オペラ歌手のマリア・カラスにちなんだ料理です。四十年ほど前、二十歳そこそこの筆者は単身、帝国ホテルのフォンテンブローで行なわれた「村上信夫ガストロノミックディナーの夕べ」に参加。肉料理の後、正餐ならではの焼き物があり、村上シェフご自身が登場され、各テーブルを回りながら、テリーヌ型で焼かれたパイ包みを一切れずつ切り分けられては客に供され、このような得体の知れぬ若者にも「今日はいかがでしたか?」と尋ねて下さったのを鮮明に記憶しています。テレビでしかお目にかかったことのなかった巨匠が目の前にいて、話さえ出来るなんて。フランス料理は凄い。その料理こそ、「マリア・カラス」であり、筆者にとってパイ包みと言えば、「マリア・カラス」がすぐ頭に浮かぶのです。
 
 もちろん、鴨のパイ包みも美味しかったです。内臓や血を用いたソースも上出来で、バターの効いたパイのオイリーさがやわらかく火の通った鴨肉にコクを与えて、口中で素敵なハーモニーを醸し出しました。ワインもポマールだし、言うことなし。パイがかぶると言われながら、デセールにはミルフィーユを頼んでしまいました。こちらはサクサクのパイの食感がシャンティークリームの甘さと苺の酸味と相まって、これもまた見事な三重奏。二時間半では物足りないかと思っていましたが、予想以上に充実した満足感のある食事となりました。
 
 六時過ぎに隣のお客様がお見えになり、「チョットシャントレル」で何皿か選んで食事されていました。結局、この日の客はこの二組だけでした。隣の方もシェフのお知り合いのようで、ただイタリアが専門のようで、帰られた後シェフに伺ったところ、イタリアで勉強されたインテリアデザイナーさんで久しぶりの来店とのこと。いつもは南仏のワインを飲まれるようでしたが、この日はヴァンサンのサントネをシェフに薦められてブテイユで飲まれていました。意外なことに、「チョット」を選ばれたのは緊急事態宣言後二週間余りで、この日のお客様が初めてとのこと。確かに、お任せコースが主流の昨今、自分で料理が選択できるのは隣におられたようなアラカルトで食べ慣れておられる方でないと無理なのかもしれません。価格的には「ちょっと気軽に」は財布に優しく、高級店にチャレンジするにはもってこいなのですが、自分で選ぶとなると逆に敷居が高くなってしまうのかもしれません。食事時間と料理の選択。時短営業下のフレンチで多くのことを考えさせられました。
 
 さらなる考察は会員用で行なわさせていただく所存です。
 

第五十四回
コロナ禍の中の『ゴ・エ・ミヨ』
――更新型格付け本の苦悩――

 フランスでは『ミシュラン』2021年度版が発売されることが話題となりました。日本では恒例のように東京版が年末に発売されましたが、本国ではそれは悦び半分、困惑半分といったところだったと思われます。昨年、コロナのせいで緊急事態宣言下では、多くの店が休業せざるを得なくなりました。フランスは日本よりはるかにパンデミックの様相を呈し、ロックアウト状態が続きました。そんな中、『ミシュラン』が発売されるのは希望の光であるのと同時に、本当に調査しているのかという疑惑を持たれることにもなりました。フランス人は皮肉屋さんなので。そうなると、コロナ禍の渦中だけでなく、通常もきちんとインスペクターによる調査が行われているのか疑わしく思われてくるものです。実際、フランスは存じ上げませんが、東京版については、掲載されている某店の店主から、「電話がかかってきて、お変わりありませんかと聞かれた」だけだったと聞きました。不要不急の外出を控えるようお達しが出て、店そのものも営業を控えているのですから実際に出かけて調査しようにも電話で確認が精一杯なのも頷けます。
 
 隣国の『ミシュラン ソウル』2021年版が東京版の一か月ほど前の昨年十一月末に出版されたのですが、巻頭にコロナのことがはっきり明記されていました。また、星付き店に関しては前年の2020年度版に比べ、一店舗だけ増え(コンテンポラリーコリアンの「7th Door」)、あとは全く同じと基本現状維持が明白で、ある種潔さを感じました。東京版に関してもおおむね同様の傾向と思われました。大きな変動はなく、フレンチに関しては数軒入れ替わっているだけの感じです。まあ、その中に筆者お気入りの「シャントレル」が入っていたので大騒ぎになってしまったのですが……。
 
 さて、『ゴ・エ・ミヨ』の方はどうなるかと思いきや、例年通り、この二月の中旬に2021年度版が発売されました。しかし、その内容は筆者にとってはなかなか衝撃的なものでした。こうした格付け本はその場その場でその年のものだけ読んでいるとそれなりに納得してしまうものです。それ以前のもの、少なくとも前年度と比較することでその違いが認識されます。『ミシュラン』は前年度からの現状維持を前提に、目ぼしいものを付け加える形でこのコロナ禍を乗り切ろうという戦略と見ました。それに対し、『ゴ・エ・ミヨ』は2020年度版と大きな違いを見せていたからです。
 
 本を手に取ってすぐ目に付くのは本の帯に書かれたキャッチフレーズでしょう。『ゴ・エ・ミヨ』の場合、掲載軒数が大きく書かれています。2020年版は673軒でしたが、2021年版は403軒となっています。つまり、前の年に比べて三分の二にも満たない数の店しか掲載されていないのです。しかも、その上に小さく書かれた掲載都道府県数を見ると2020年は24都道府県に対し、2021年は33都道府県とこちらは増えているのです。ここから結論付けられることは、大都市圏の掲載軒数が大幅にカットされたということでしょう。ちなみに『ゴ・エ・ミヨ』が初めて日本に登場した2017年版は掲載軒数が300軒ほどでしたが、東京と北陸三県(石川、富山、福井)の一都三県だけが対象でした。つまり、東京が大部分を占めていたのです。フレンチに関して大都市圏の掲載軒数の少なさは東京はまだしも、大阪は7軒だけ、兵庫に至っては芦屋の1軒だけで、神戸はゼロ。これではまるで、関西はフレンチ不毛の地のように思われるではありませんか。
 
 そうなった原因を推測しますとまさしくコロナ禍のせいではないかと考えられます。全国規模の緊急事態宣言が出されたこともありましたが、その後大都市圏では時短営業などがたびたび発動され、一方、政府はGoToキャンペーンで地方の観光の活性化を図ろうとしました。ですので、調査する方も大都市圏で多くの店を回ることは困難で、地方を広く薄く回る方が実際可能だったのではないでしょうか。また、『ミシュラン』の日本上陸が「東京」版から始まったのに対し、『ゴ・エ・ミヨ』は最初から東京に北陸三県も含めての開始となっていました。そこで、当初より地方への視点を持っていたところに、このコロナ禍で地方への移住なども話題になっていることから地方への比重が増しているのかもしれません。巻頭の「編集部より」でも「まず、テロワールを大切にすること」と書かれています(4頁)。
 
 問題はこうした傾向が予測出来ないコロナ禍という例外的状況下での一時的なものなのか、今後とも地方への進出を図り、広く薄く全国規模のガイドにすることを当座の目標をするのかが不明なことです。本全体のポリシー、コンセプトを明確に規定し、明文化することが求められると考える次第です。
 
 というのも、そもそも『ゴ・エ・ミヨ』という格付け本が誕生したのは、アンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨが「ヌーヴェル・キュイジーヌ宣言」を公にし、新たな基準での格付けを行うためでした。それは『ミシュラン』に代表される旧来のフランス料理に対抗してのことでした。つまり、元々『ゴ・エ・ミヨ』という本そのものが極めてコンセプチュアルなものなのです。そう考えますと、日本版はポリシーを明確にし、その判断基準を明示する必要があると言えましょう。そうでない限り、『ミシュラン』の二番煎じとしか認識されないことになるでしょう。本家のフランスの『ゴー=ミヨ』も確かに『ミシュラン』に遅れて登場しましたが、『ミシュラン』とのコントラストを強調することで独自性を発揮して、『ミシュラン』と双璧と言われるまでになったのですから。
 
 さらに具体的な問題として、評価基準を明確にしないために、先述のようなあたかも関西ではフレンチが不毛であるかの誤解を与えかねない事態を生じていることが挙げられます。これは大都市圏において掲載軒数が大幅に減った理由が、掲載に値する評価点が14点から15点に上げられたため、それまで掲載されていた14点、14.5点の店が落とされてしまったことに起因します。おそらくはコロナ禍で調査に出かけられる店の数が限られてしまうので、点数の上の店から確認していったのではないでしょうか。ピラミッド状の上の方から評価していく以上、点数が下がれば下がるほど該当する店の数も増えていきます。『ミシュラン』と比べてみますと、一つ星に相当する店は『ゴ・エ・ミヨ』の場合、1415.5点になるかと思います。そうしますと、15.515点と14.514点の店に分けると後者は圧倒的に数が多くなります。そこで15点で足切りしたのではないでしょうか。結果、昨年14.5点で掲載されていた一つ星店で今年も『ミシュラン』には掲載されているのに、『ゴ・エ・ミヨ』では落とされているケースが見られます。大阪、兵庫も15点以上しか掲載されていません。ですので、『ミシュラン』で一つ星を獲得している多くの店が掲載されていない事態に陥っているのです。
 
 こうした事態を起こしてしまう原因は点数評価と共に『ゴ・エ・ミヨ』は点数をグルーブ化し、トック(コック帽)での評価も併記しているからです。これは『ミシュラン』の星と同じ評価になりますが、その区分が微妙なのです。最高が5トックで2019点、次いで4トックが18.5点~17点、3トックが16.5点~15点、2トックが14.5点~13点、1トックが12.5点~11点、トックなしが10.5点~10点と記されています(6頁)。問題は『ミシュラン』が星を三段階評価するところ、『ゴ・エ・ミヨ』では『ミシュラン』星付き店が14点くらいまで該当しますので、5トックから2トックまでの四段階で評価することになり、微妙なズレを生じてしまうことになるのです。そこで思い切って、5トックから3トックまでつまり15点までで足切りすれば、三段階評価になり、形式上は『ミシュラン』と一緒になります。ただし、同じ3トックには『ミシュラン』二つ星と一つ星の店が同居することになり、2トックに入っていた一つ星店が落とされる結果になったのです。
 
 ちなみに、『ゴー=ミヨ』パリ版は今年から点数評価をやめて、5トック評価だけになっています。ただし、5トックからトックなしまで満遍なく掲載しているのです。それに対し、上記のトック評価を明記しながら、『ゴ・エ・ミヨ』は1トック、トックなしの店はまったく掲載されていません。しかも、大都市圏では2トックも削除されてしまいました。
 
 さらに困ったことには、『ゴ・エ・ミヨ』で点数の高い一つ星と一点ほど低い一つ星の店の差は何処にあるかということです。16点になりますと二つ星です。つまり、いよいよグランメゾンになっていく訳です。つまり、点数の高い一つ星店はそれだけグランメゾンに近い店であると言えましょう。これは料理の技術の問題だけではなく、食材や調度をはじめレストラン全体へのお金のかかりようといったことになって参ります。実際、15点以上の店ですとディナーは15000円からと思われた方がよろしいでしょう。一つ星クラスで二万円を超える店も多数掲載されています。料理だけですので、ワインを飲まれれば倍かかると思われた方がよろしいか、と。
 
 また、もうお分かりかと思いますが、地方都市で15点足切りにしますと掲載店が激減しますので、当然それ以下の店も掲載することになり、実際13点まで掲載されています。つまり、2トックまでです。これでも1トック、トックなしの表記の意味がわかりませんが、いずれにせよ、ダブルスタンダードになっているのです。例えば、14点の店は地方であれば掲載され評価されるのに対し、大都市にあれば無視されることになります。しかも、中には昨年は掲載されていたのに、今年は載っていない店もあるわけで、別に味が落ちた訳でもなく昨年と同じであったがために載っていないだけなのですが、傍から見れば「落とされた」という誤解を与えかねない事態に陥っているのです。
 
 こうしたことからも、ダブルスタンダードはやめるべきと筆者は考えますが、コロナ禍などの事情、あるいは地方を優先して評価したいという意図をお持ちであれば、その旨を巻頭でしっかり明言し、どのように評価するかを明確に示すべきではないでしょうか。ともかくも、読者にいらぬ誤解と混乱を起こさせないよう、最善の配慮を行なうべきなのです。
 
 ただし、ここには『ゴ・エ・ミヨ』に限らず、昨今の日本のフレンチに関する気になる二つの傾向を見てとることが出来ます。つまり、()ビストロノミーからグランメゾンへの回帰と(2)真の美食は地方しかも「僻地」にありという考えです。この二つの思考は実は通底しているのですが、それに関しては会員用で考察したいと思います。
 

第五十五回
「エチケットは語る」
――来たるべき美食のための回顧――

 昨年末、ひょんなことからFacebookを始めることになりました。折角なので、毎日一回は投稿しようと決心した次第です。というのも、数年前にブログを始めた際にも毎日一回は投稿しようと思ったのですが、どうしてもそれなりの分量を書きたくなってしまい、結果、三日坊主になってしまった苦い経験があったからです。それに対して、Facebookでしたら、iPhoneからそのまま打ちますので分量もそれほどたくさんにならず、続けられるのではないかと。問題は話題です。ブログではレストラン評とクラシック音楽のディスク評が中心でした。このコロナ禍で食事に出かけるのが制限されていますので、ディスク評は続けられるにせよ、クラシック音楽に限定せずに、他に好んで聴いている女性ジャズヴォーカルとピアソラを中心としたアルゼンチンタンゴのディスク評も書くことにしました。また、職業柄、書評も載せようと。
 
 さて、美食関係はどうしようと思ったとき、これまで収集してきた「エチケット剥し」を紹介し、そのワインを堪能した食事についても回想するようなエッセーを書こうと思ったのです。これまでもことある毎に多くの方から収集したエチケットを用いて本を書いたらどうかとお言葉をいただいておりましたので、その準備にもなるかと思い、「塵も積もれば山となる」方式で書き溜めていき、あわよくば、本にでも纏められればと思った次第。
 
 筆者がこの連載を書くきっかけとなったリーファ―ワイン協会へのお誘いも、ひとえに「エチケット剥し」のおかげであることはすでに書いて参りました。フランス料理歴は大学に入学した一九八〇年以来、すでに四〇年を過ぎましたが、ワインを本格的に学ぼうと思ったのはパリに出かけることになった一九九四年頃で、十五年ほど遅れを取ったことになります。ちょうどその時、ワインを学ばせていただくことになった「ル・マエストロ ポール・ボキューズ トキオ」で「エチケット剥し」に出会ったのです。当時は「ヴァンテックス」という名前がついていました。透明なフィルムの方にはボキューズのサインが、台紙の裏にはボキューズの本店と東京店の住所が記され、コメントを書くスペースが。ワインを学ぶのに必須のアイテムとソムリエ氏に相談すると開発者から直に買うルートを紹介して下さり、現在に至るという訳です。
 
 ちょうどこの「エチケット剥し」も開発されて間もない頃で、偶然とはいえ、「エチケット剥し」の歴史は筆者のワイン愛好家としての歴史にほぼ一致する切っても切れない関係にあるのです。そして、四半世紀が過ぎようとする今日、ようやくその成果を披露する場を見つけたのでした。実は先立つ数年前、知人が酒の同人誌を作り、執筆に誘われましたので二頁を買い、昔、育児雑誌で連載をしていた際の編集者とライターの方に協力を得て人生相談とエチケットの紹介コーナーの紙面作成をしました。しかし、二回掲載した後、同人誌は事実上、廃刊の憂き目に。折角の連載も叶いませんでした。その際にエチケット紹介コーナーに付けた名前が「エチケットは語る」でした。
 
 そこで、今回のFacebookにおけるエチケット紹介の一連の投稿にも「エチケットは語る」というタイトルを付けた次第です。一回にWordですと一~二頁の分量で、エチケットの画像が添付されます。時には当該のワインを飲んだ際の食事の勘定書など資料の画像もさらに添付されます。筆者がワインを本格的に学び始めて間もない、1995年のパリ訪問の際飲んだワインのエチケットから取り掛かることにしました。この原稿を書いている現在、あと数本でこの年のパリでのワインは紹介し終わることになります。
 
 久しぶりにエチケットを眺めますと、今から四半世紀も前の記憶が蘇ります。もちろん、詳細ではありませんが、裏にコメントも書かれていますのでぼんやりとではありますが、その時の味わいのようなものの察しがつくといった感じでしょうか。もちろん、それはワインだけではなく、その時の食事というシチュエイション全体の記憶が再現するのです。当時は携帯はおろか、デジカメもありませんでした。写真は使い捨てのインスタントカメラ全盛時代でした。筆者も持参しましたが、食事中に撮影することはありませんでした。
 
 というのも、こんなことがあったのです。その年、八区にある老舗の「ラセール」に行った際のこと。当時二つ星で、天気が良いとホールの天井が開いて夜空の下で食事が出来ることで有名な店です。同じ日本人ということからか、席が日本から研修旅行か何かで来ていた調理師学校の学生の団体と一緒の区画にされてしまったのです。今なら、席を変えろとクレームをつけるのですが二度目のパリでそれどころではなく、うるさいし、嫌だなあと思いつつ、渋々席に着いた次第。そのうるささといったら、おしゃべりはもとより、パシャパシャというインスタントカメラのシャッター音も含まれていたのです。団体ですので料理など出てこようものなら、一斉にシャッターが切られ、結構な騒音に。そして、極めつけは自分を担当したソムリエが絶好の被写体となったことです。
 
 筆者が頼もうとしたワインにソムリエは頑として首を振りませんでした。その料理には強過ぎる。これにしなさい、と。ソムリエがリストで指さしたのはシャトー・ピション=ラランドの1969年でした。筆者は驚きました。ヴィンテージワインは好みですが、1969年というのはバッドヴィンテージでいくらピション=ラランドとはいえ、美味しくはないだろう。しかし、ソムリエは自説を譲る気配なし。仕方なく、ソムリエの言う通りにしました。ところが、当時でも二十五年を過ぎていたとはいえ、コルクがバラバラに砕けてしまったのです。筆者は唖然としました。今でしたら、即座に「交換しろ」と怒鳴りつけたでしょうが、日本人特有の「頭が真っ白に」なってしまったのです。一瞬、意識が飛んだかと思いきや、ざわざわという声で正気に戻り、そして、パシャパシャというシャッター音がこちらのテーブルに向かってあちこちから発せられていることに気づいたのです。ソムリエは悪びれもせず、「ノープロブレム」と言って対処するためでしょうか、一端席を離れました。そして、ソムリエが戻って来るまで我々二人は餓鬼どもの好奇の眼の晒し物になったわけです。しかも、ソムリエはピンセットを持って再度登場し、ブテイユの中のコルクの破片をつまみ出す作業に取り掛かる始末。撮影会は続き、結局、コルクのかすだらけのワインを飲まされる羽目に。筆者が今でも食事中に写真を撮るのを最低限にしたいと思うのは、この経験がトラウマになっているからでしょう。また、この時筆者はこう確信したのです。「ソムリエは信用してはいけない。あくまで自分の飲みたいワインを飲むべし」、と。
 
 あの時の食事を回顧しながら思うのは、やはり「アラカルトでの註文の復活」です。当時、星付き店では「オードブル、メイン、デセール」の三皿をアラカルトで註文するのが当たり前でした。昼出かけていたビストロでも、定食ですが「定」とはいわゆる「プリ・フィックス」、値段が一緒という意味で、同じ値段でオードブル、メイン、デセール、それぞれ数種類の料理からチョイスすることが出来たのです。さらに、時間にせわしくなってきたのか、ドゥプラ(二皿)といってオードブル+メインかメイン+デゼールが同じ値段でサクッと食べられるような設定も+αとして掲げる店も増えてきていました。しかし、いずれにせよ、何を食べるかの組み合わせは限られた選択肢とはいえ、客の主体性、即ち、食事する当事者の選択の自由に任されていたのです。
 
 「定食」と言えば、当時、星付き店では「デギュスタシオン」というその店の「定番」料理を、ポーションを減らして(通常の半分~四分の三くらい)組み合わせた(67皿くらい、例えば、オードブル2(冷製と温製)、魚、肉、〔スペシャリテ〕、フロマージュ、デセール〔あるいはデセール2〕)「お決まり=お任せ」のメニュがありました。主にグランメゾン初心者や旅行者向けの「高級定食」です。同じ95年、二つ星で十七区、凱旋門の近くにあった「ギー・サヴォワ」に出かけたときのことです〔現在は三つ星で、六区造幣局の建物内にあります〕。十名くらいでしょうか、日本人の団体に出くわしました。皆が一つになって、一心不乱に皿と格闘していました。よく見ると全員、同じ料理を食しているではありませんか。ああ、「デギュスタシオン」か、とすぐ分かりました。また、どうもワインを頼んでいる風でもなく、水で料理を流し込んでいるように見えました。他のテーブルがそれぞれ好みのワインを開けつつ、話に花を咲かせながら、様々な料理を堪能している中で、その団体の長テーブルだけが時間の流れが違っているようです。団体行動をされていて、この後、「リド」か「クレイジーホース」といったナイトクラブでショーでもご覧になるので時間に限りがあるのではないか、と。いずれにせよ、お決まりの料理を皆で一斉に食する光景は場違いというか、グランメゾンにふさわしいものではありませんでした。
 
 そう思いますと、昨今の日本の星付き店の食事の光景は、いにしえの団体旅行客とあまり変わらないように思われます。お任せと称し、店の客全員は同じ料理を食する。さらに、店によっては開始時間を厳守せよとまで客に強要する始末。しかも、その場合、唯一の差異を表現できる、つまり、客が自己主張できるワインのチョイスまで、ペアリングなどという詭弁を弄して封じ込めようとするではありませんか。これでは体のいい鶏舎のブロイラーの餌やりと何が違うのでしょう。
 
 そして何より筆者が許せないのは、それらを「美食」という目的のためと称していることです。目の前にゴッホやピカソの絵が置かれたとして、見る者に「審美眼」なくして、どうしてそれらの絵が「美しい」と判断できるのでしょうか。せいぜい、世間一般がそう言っているとか、教科書に載っているからという理由しかないのではないでしょうか。これを論理学では「権威に訴える誤謬」といいます。食であれば、食べログで何点だったからとか、有名なブロガーの誰々が絶賛していたからといった理由付けです。自分自らが「美味しい」と判断したからではなく、権威ある誰々が美味しいといっているので美味しいに違いない。ラーメンやカレーといったいわゆる「B級グルメ」ではあれだけ各自が蘊蓄や自説を語り、自分なりの名店を選んでいるのに、肝心のフレンチなどになると急に権威に頼りたくなってしまうようで。
 
 ラーメンやカレーであれだけ味の違いなどを微に入り細に入り分析できる「審美舌」をお持ちなら、フレンチだって同じでしょうと申し上げたい。というか、グランメゾンはそうした「審美舌」を鍛錬させないよう、飼いならそうとしているのかもしれません。ワインが選べない=分からないのは、ワインを選ぶ機会が与えられていないからではないでしょうか。いにしえのエチケット剥しが思い出させてくれることは、グランメゾンとは自分で選ぶことが出来る者が出かける「場」であるということです。グランメゾンでワイン選び出来るようになるためには、日常のワイン選びで「審美舌」を磨くしかありません。誰も最初からワイン選び出来るはずがありません。自ら選ぶ機会を作って、試行錯誤しながら「審美舌」を鍛えていくのです。そう思えば、現在の日本のグランメゾンは「選ばせない」以上、客の「審美舌」を磨かせない、つまり、「美食」のためとは名ばかりの、「美食」への裏切り行為をしていることになるのです。従って、真に「美食」のためと称するなら、アラカルトで食事するスタイルへ戻すことこそ、美食の前進=進展となるのです。
 

目次

著者Profile

関 修(せき おさむ)

フランス現代思想
文化論
(主にセクシュアリティ精神分析理論/ポピュラーカルチャースタディ)
現在、明治大学法学部非常勤講師。
2014年、明治大学で行われた「嵐のPVを見るだけの授業」が話題となった。
 

経歴

1980年:千葉県立船橋高等学校卒業
1984年:千葉大学教育学部卒業 
1990年:東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程単位取得満期退学、東洋大学文学部非常勤講師 
1992年:東洋大学文学部哲学科助手
1994年:明治大学法学部非常勤講師  、他に、岩手大学、専修大学、日本工業大学などで非常勤講師を務める 
 

著書

『挑発するセクシュアリティ』(編著、新泉社)
『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』(編著、夏目書房)
『美男論序説』(夏目書房)
『隣の嵐くん~カリスマなき時代の偶像』(サイゾー)
『「嵐」的、あまりに「嵐」的な』(サイゾー)
 

翻訳[編集]

G・オッカンガム『ホモセクシュアルな欲望』(学陽書房,1993年)
R・サミュエルズ『哲学による精神分析入門』(夏目書房,2005年)
M・フェルステル『欲望の思考』(富士書店,2009年)
 

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