美食批評への誘い  Vol.16~

クリティーク・ガストロノミック

 
フランス現代思想家

関  修(せき おさむ)

第十六回
ソムリエの仕事をセルヴィスが兼任する難しさ
――メートル・ド・セルヴィス杯観戦記②

 前回に引き続き、メートル・ド・セルヴィス杯を観戦した所感から、ソムリエの仕事をセルヴィスが兼任することの難しさについて記しておきたいと思います。まず前提として、すでにこの連載で繰り返し書いて参りましたように、レストランの三角形では、ワインとサーヴィスは別の柱になっており、しかも、ソムリエは元来サーヴィスの二部門、料理担当と飲み物担当の後者に該当し、ワインを専門に扱うのはキャヴィストに相当するという込み入った関係にあることを思い出していただきたいのです。つまり、セルヴィスという括りでは食べ物、飲み物をすべて扱うのが当然なのですが、王制時代から、肉を切る係と飲み物を担当する係は別だったのであり、現在もグランメゾンでは、セルヴィスとソムリエはそれぞれ別に存在します。しかし、昨今のフレンチにおいては、ビストロのみならず、まさにビストロノミーの一つ星あたりではソムリエがセルヴィス一般を担当したり、少なくとも食べ物と飲み物のサーヴィスの分業が明確になっていないのが実情です。また。ホテルでも、朝食からディナーまで出すようなダイニングに専任ソムリエを置くところはまずありません。
 
 こうした事情からでしょうか、今回のコンテストでもワインを主とした飲み物のサーヴィスもファイナリストは行なうことになっていました。順に挙げて行けば、ミネラルウォーターの注文(炭酸入りか無しか)とサーヴィス、食前酒のシャンパーニュのサーヴィス、白ワインのサーヴィス、赤ワインのサーヴィス、食後の飲み物のサーヴィスの五つが要件となりましょう。まず、結論から申し上げますと、四名からなるテーブルを、昨今は通常あまり見かけないゲリドンサーヴィスが目白押しの課題を一人でこなし、しかも、助手いや相棒のコミは厨房との行き来で精一杯とくれば、食事のサーヴィスで手一杯で飲み物までは細心の注意が行き届かないということです。
 
 一目瞭然だったのは、ミネラルウォーターの扱いです。四名の客の水の入ったグラスの状況を把握し、無くなりかけたら補充するのは、ワインが次々出されて行くにつれ、ますます困難になっていきます。せめてコミに余裕があれば、コミが水の補給を行なえばよいかと思うのですがそれどころではない。従って、水のグラスが空になっているのが散見されました。ある卓では苦肉の策か、エヴィアンのボトルをテーブルに置いてしまって、客が自分で注ぐ形になっていました。同行して下さったワインバーの店主は、これはヨーロッパで最近よく見かけるスタイルだとおっしゃっていましたが、筆者はまずいと思います。何故なら、これはキャラフ・ド・ロ、即ち、無料の(水道)水をサーヴィスするときのスタイルだからです。ミネラルウォーターは有料、しかも日本のみならず、ヨーロッパでもその値段は高い。つまり、サーヴィス料が加算されているのです(フランスではサーヴィス料込みの値段が表示されています〔セルヴィス・コンプリ〕)。つまり、ミネラルウォーターを注文するなら、それをサーヴィスするのは当然の職務。客が自分で注ぐなどあってはならないことなのです。さらに、テーブルに置けば、水がぬるくなります。これもサーヴィスとしてあってはならないこと。いずれにせよ、クーラーに入れておかねばならないのですが、ほとんどの卓でブテイユはクーラーに入れられず、作業台にそのまま置かれたままでした。
 
 こうして考えると推して知るべしで、さらにデリケートな配慮の必要なワインのサーヴィスが形式的なものになってしまったのです。客にワインを紹介し、しかるべき客にテイスティングしていただき、女性からサーヴィスして行く。そうした一連の行為はさすがファイナリスト、皆さん、そつなくこなしておられました。しかし、アペリティフのシャンパーニュ、白ワインとサーヴィスの後、ミネラルウォーター同様、やはりクーラーに入れないまま作業台に放置してあるテーブルがほとんどでした。しかし、客の中には、ワインを飲まない方もおられましたし、またずっとシャンパーニュで通した方も見受けられました。そのような方にぬるくなった水やシャンパーニュをお出ししていたのは残念です。ちなみに御存知かと思われますが、シャンパーニュはマナー上大変便利なお酒で、アペリティフからデセールまで合わせることが可能と言われています(ロゼは魚・肉両方にマリアージュ可能と理解されます)。ですので、お酒があまり強くない方は、二人でシャンパーニュを一本取って、アペリティフから食事の終わるまで飲み進めて行けば、ボトルはちょうど空になるでしょう。かく言う筆者も、大学入学時からフランス料理を食べ始めましたが、ワインの魅力に開眼し、探求しようと思うに至るまでの十年ほどは料理中心で、もっぱら(一番ポピュラーな)モエ・エ・シャンドンのブリュットをボトルで頼んで済ませていました。
 
 もちろん、今回供されたシャンパーニュが通常のノンヴィンテージのブリュットで、白ワインもラングドック=ルーションの気軽なものだったので、比較的シンプルなサーヴィスで事足りたのであり、高級名柄やヴィンテージものだった場合、サーヴィスには細心の注意を払う必要があります。その点、赤ワインは逆に不相応に仰々しい扱いをされていたのが気になりました。今回用いられたのは、ボルドーの右岸、ACカロン=フロンサックのシャトー・ガビ2012年でした。通好みの素晴らしいチョイスですが、決して高いワインではありません。まず、驚いたのはパニエに入れて出されたことです。通常、パニエに入れて出されるのは一万円を超えるような高いワインか、澱が舞うのが懸念されるヴィンテージもののワインです。まあ、当該の食事のメインのワインだから恭しくパニエに入れて供したと理解しましょう。と思いきや、デキャンティングすると言うのです。そして、蝋燭に火をつけて、パニエに斜めに横たわっているブテイユのネックのところにその火をかざしながら、デキャンティングを始めたのです。これもまた、奇妙でした。ブテイユのネックのところに火をかざしてデキャンティングするのは古酒の場合です。澱が舞ってグラスに注ぐワインに混入しないよう、注意を払うためです。澱が混ざる口中でざらつきが感じられ、また味にも影響が出ます。とりわけ、ブルゴーニュは澱が細かいので、細心の注意が必要です。 今回はボルドーで、しかも五年ほど経ったに過ぎないもの。従って、澱は出ていないと思われます。また、澱が出ていたとしても、大きなものですので、パニエに入れたままグラスに注げば充分と思われます。つまり、蝋燭の火云々といったデキャンティングを行なう理由は、本来、ヴィンテージものを供する際、デキャンタに移すことで澱が混入していない清澄なるワインだけをサーヴィスすることを可能にするためなのです。従って、デキャンティングの方法がそぐわないと言えましょう。
 
 としたとしても、あえてデキャンティングするとしたら、それはもう一つの理由からと言えましょう。それはまだ飲み頃には早いと思われるワインを供する際、飲む前に少しでも多く空気に触れさせて、香りを開かせ、口当たりの柔らかさと口中での味の広がりを引き出すためです。確かに、コンテストで使われたグラスはテーブルそのものが小さかったせいもあるのか、ボルドーグラスではなく、小ぶりのものでした。従って、グラスを回してグラスの中で空気に触れさせるのは困難でしょう。しかし、その場合、まず気になるのはデキャンティングが必要なほどワインは硬いのかということです。ボルドーでも右岸はメルロが主体(ぺパーコーン『ボルドー・ワイン 第二版』(早川書房)によると(314頁)、当該のシャトーのセパージュはメルロ85%、カベルネ・ソーヴィニヨン10%、カベルネ・フラン5%)で、通常レヴェルのワインであれば、五年くらい経っていれば飲み頃になっているはずです。カベルネ・ソーヴィニョンが主体のメドックのワインでもブルジョワクラスであれば、充分飲めます。ですので、デキャンティングは不必要というのが筆者の見解です。
 
 それでも、いや、そんなことはない。まだまだ飲むには早く、硬いのでデキャンティングした方がよいのだとおっしゃるのなら、その場合、デキャンティングのタイミングがおかしいのです。硬いワインをほぐすためにデキャンティングするのなら、今回のようにワインが決まっているのなら、食事を始めるに際して、その旨しかるべく説明をして、デキャンティングしておくべきではないでしょうか。また、通常の食事であれば、アペリティフを飲みつつ、メニュから食事を、ワインリストからブテイユを選んだ時に、まだ硬そうだと思えば、客からデキャンティングをリクエストしても良し、セルヴィス(ソムリエ)からデキャンティングを勧めても良し、いずれにせよ、早めに行なう必要があります。ところが、誰一人として、そのように行動したファイナリストはいませんでした。皆、肉料理が出る直前に抜栓し、デキャンタに移しただけ。デキャンタの中でワインを充分回して、空気に触れさせていた方もいなかったように思われます。これではデキャンティングの意味がありません。ちなみに、デキャンタは使用するに際して、まず、少量のワインでリンスするのがマナーではないでしょうか。万が一とはいえ、ほこりや汚れなどを事前に除去するためです。こうした所作をきちんと行なっていたファイナリストは一名に過ぎなかったように思われます。
 
 このように見て来ますと、料理のサーヴィスで手一杯で、ワインをはじめとする飲み物全般にまで注意が行き届かなかったのか。それとも、サーヴィスが形骸化して、その意味まで理解していないかのどちらかとしか言いようがありません。少なくとも、フランス料理たるもの、マナーであれ、料理であれ、合理性に基づいていないものは一つとしてありません。合理性(rationalité)とは理由(raison、理性の意も〔ラテン語で理性はratio〕)があるということです。サーヴィスの一つ一つに意味がある。無駄のない動きとは、無意味な所作がないということではないでしょうか。そう思うと、料理のサーヴィスを極めようと思えば思うほど、飲み物に関してはソムリエに任せるのが妥当ではないでしょうか。今回のコンテストを拝見して、その思いを強くした次第です。
 

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第十七回
追悼 ポール・ボキューズ
――現代フランス料理の転回点――

 二〇一八年、今年も引き続きどうかよろしくお願いします。昨年の創刊時、裁判沙汰になりましたが、日本側編集陣の交代を経て、『ゴ・エ・ミヨ 東京・北陸・瀬戸内 2018』が無事、今年も継続して出版されました。そこで昨年との比較を行なおうと思っていたのですが、年が明けてまもない一月二〇日、「ヌーヴェル・キュイジーヌの法王」と呼ばれたシェフ、ポール・ボキューズ氏(以下、敬称略)の訃報が飛び込んでまいりました。リヨン郊外、コロンジュ・オーモン・ドール村にある自身のお店で亡くなったとのこと。九十一歳でした。『ゴー・ミヨ』はボキューズと深い関係があり、筆者もまた、ご本人にお目にかかったグランシェフの中で最も印象深かった方ですので、ここに追悼の記事を書かせていただきたく思います。
 
 ご存知のように、「ヌーヴェル・キュイジーヌ」という言葉を広めたのは、アンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨの二人で、彼らは一九七二年に『ゴー・ミヨ』を刊行しました。このガイドは『ミシュラン』の保守的な評価に対し、まさに「新しい(ヌーヴェル)」フランス料理を積極的に評価することで新機軸を打ち立てようとしたのです。その象徴となるのが、翌七三年に発表された「ヌーヴェル・キュイジーヌの十の戒律」です。もちろん、それ以前から彼らはこうしたスタイルの料理を探し求めていました。その中で出会ったのが、ボキューズ、トロワグロ兄弟、アラン・シャペルといったシェフだったのです。しかも、彼らはコロンジュ、ロアンヌ、ミオネーといったフランスの地方、それも田舎に店を開いていました。ただし、ボキューズは一九六五年、トロワグロは一九六八年、シャペルは一九七三年にミシュランで三つ星を獲得していますので、その知名度はすでに確立していたことは確かです。そして、一九七五年、フランスの料理人では初めて「レジオン・ド・ヌール勲章シュヴァリエ」を受章。まさに、「法王」、「皇帝」といった呼び名がふさわしい存在となったのです。
 
 その受賞晩餐会で披露された「黒トリュフのスープVGE」はボキューズのスペシャリテとして有名になりました。VGEは時の大統領、ジスカールデスタンの頭文字です。スープ椀にパイ皮をかぶせ、ふっくらと焼き上げる。そのパイを割るとトリュフの香りが一瞬にして立ち上り、食べる者を魅了する。ひときわ値段の高いこのスープは憧れの的でした。しかし、筆者にとって、ボキューズの代表的料理と言えば、「(オマールのムース入り)スズキのパイ包み焼き ソースショロン」より他はありません。師匠である(トロワグロもシャペルも)「ピラミッド」のフェルナン・ポワンから受け継いだとされるその料理は、シンプルなブールブランソース(白ワイン入りバターソース)だったものを、エストラゴンとセルフィーユの効いた酸味の強いショロンソースに進化させたことで、味が格段に印象深いものになりました。しかし何より、スズキ一匹を魚の形をそっくり型取ったパイ生地で焼き上げたダイナミックな料理は見る者を釘付けにするでしょう。そして、筆者もまた、ボキューズその人を初めて見たのは、大きく手を広げにっこり笑いながら、魚の形をしたパイを「どうぞ」と勧めるボキューズの写真だったのです。それは「レンガ屋ポール・ボキューズ」の宣伝写真でした。ボキューズは世界的に有名でしたが、とりわけ日本とは深い関係にあったのです。
 
 一九七〇年代、日本のフランス料理黎明期、銀座即ち日本の名店と言えば、「マキシム」、「レカン」と並んで名前の挙がるのが「レンガ屋」でした。代官山にも店があったように思います。「レンガ屋」は一九七二年、ボキューズと提携を結び、スーシェフだったジョエル・ブリアンが着任。後に、ブリアンは南青山に「ジョエル」を開店、現在に至っています。また、日本におけるフランス料理の伝道師的存在で辻調理師学校を設立した辻静雄氏が、一九七二年にボキューズとジャン=ポール・ラコンブ(二つ星「レオン・ド・リヨン」シェフ)を講師として招聘、一九七五年にはトロワグロと共に再び招聘されています。また同七五年、辻はTBS系列で放映が開始されたテレビ番組「料理天国」の監修を担当。芳村真理さんの軽妙な司会、龍虎氏が試食担当で様々なジャンルの料理を紹介。筆者もまた、この番組を欠かさず見ていました。とりわけ、辻調のフランス料理教授小川忠彦氏(「ピラミッド」で修業)の作る料理に魅了されたのを思い出します。
 
 このようにボキューズは日本におけるフランス料理の普及の初期から関わりを持ち、それは現在に至っています。一九八六年には、アークヒルズ、とりわけサントリーホールの開設に伴い、サントリー社長佐治敬三氏の肝いりでホールの向かいに「ル・マエストロ・ポール・ボキューズ・トキオ」が開店。ボキューズは最高技術顧問に就任します。筆者が定期会員になったオケの演奏会の帰りに必ずディナーのため来店するようになったのは、一九九三年だったと思います。それから九七年の閉店まで顧客の末席に加えていただくことになりました。そこでボルドーワインに開眼したことはすでに書き記した通りです。そして、そこでボキューズにお目にかかることになりました。ちなみに、その後、ボキューズは名店「ひらまつ」グループと提携し、二〇〇七年、代官山に「メゾン・ポール・ボキューズ」を開店。ブラッセリーは全国展開がなされています。同〇七年は年末に『ミシュラン東京』(2008年版)が登場した年であり、「メゾン・ポール・ボキューズ」は一つ星を獲得、現在に至っています。筆者は『ミシュラン』発刊に合わせての「日刊ゲンダイ」紙の企画「ランチで使えるミシュラン」でフランス料理を中心に記事を書かせていただきました。そして、代官山の店にも出向きました。筆者の食していた「ル・マエストロ」での料理はボキューズ直伝のものではありませんでしたので、「メゾン」の方がボキューズのレシピを忠実に再現していたと思います。味のしっかりした暖かくどこか懐かしい味。アンリ・ゴーが、「祖母の味への回帰」と記した〔アンリ・ゴー『フランスのレストラン ベスト50』(柴田書店、1988年)、58頁〕ボキューズの料理ではなかった、と。
 
 さて、筆者がボキューズ氏に最初にお目にかかったのは、一九九五年、ミシュランの三つ星三十周年を祝う特別ディナーのため来日された際でした。その後、現在に至るまでコロンジュの店は五十三年にわたり三つ星を維持しています。ちなみに師のフェルナン・ポワンの「ピラミッド」は一九三三年、『ミシュラン』が三つ星のランク付けを始めた年に三つ星を獲得して以降、五五年のポワンの死後、後を引き継いだマダムポワンが三つ星を守るも八六年に亡くなり、翌八七年に二つ星に降格しました。くしくも「ピラミッド」が三つ星だったのは五十三年間。ボキューズ亡き後、はたして来年の『ミシュラン』はボキューズに幾つの星をつけるのでしょう。
 
 九十五年の特別ディナーは1125日(土)に出かけています。実は23日が筆者の誕生日であり、それ故にか、その日飲んだワインは筆者の誕生年1961年のシャトー・パヴィ、さらに、ディジェスティフも1961年のポルトと記録されています。1961年のボルドーは戦後のヴィンテージ中最良の年の一つと言われています。筆者がボルドーに魅かれた理由の一つでもあります。さて、その日何を食したのか。申し訳ありませんがよく覚えていません。当時の「ル・マエストロ」のシェフはフランス帰りの新進気鋭、市川知志氏(現、銀座「シェ・トモ」オーナーシェフ)でした。しかし、彼はトロワグロの弟子でボキューズ直系という訳ではなく、料理は見事でしたがボキューズ色の強いものではなかったと記憶しています。さて、この特別ディナーには来店記念に『ミシュラン』を模した赤いハードカバーの表紙のボキューズ三つ星三十周年記念の小冊子がお土産に配られました。フランス語の冊子に別紙の日本語訳が付いたものです。中には、ポワン夫妻はもとより、上記のトロワグロ、シャペルの写真も登場します。また、ボジョレーの普及に共に尽くしたジョルジュ・デュブッフなどの顔も見られます。「ピラミッド」三つ星五十周年を祝ってマダムポワンにバラを捧げるボキューズら弟子たちの写真はその中の白眉と言えましょう。それだけでも貴重なものですが、ボキューズ氏が各テーブルを回り、ポラロイド写真を一緒に撮って下さり、それにサインをして、冊子の裏表紙に貼って帰りに渡して下さったのです。筆者のテーブルは同行者が遠慮したのか、別に撮って下さったのか記憶にないのですが、ボキューズ氏と筆者のツーショットの写真が手元に。右手で握手し、左手は筆者の肩に手をかけて下っています。しかも、「関さん、御誕生日おめでとう」、と冊子にはさらにサインが入っています。筆者にとって今までの人生で一番の宝物は何かと問われれば、それは間違いなく、この小冊子に他なりません。
 
 そして、翌九十六年、再びボキューズ氏にお目にかかった記憶があるのです。調べたところ、1127日(水)のことでした。この際は出版社の方たちと四名だったのか、筆者が九月にパリで購入したシャトー・ラルシ=デュカスの1955年をメインに何本かワインが空いています。何かの用で来日され、その間、店に顔を出されていたように記憶しています。何故記憶しているかと申しますと、実は筆者、ボキューズ氏ご自身の作られた料理を食しているからです。それは九十五年のことではなく、この年のことだったのではないか、と。紙面が尽きて参りましたので、その話は会員頁で詳しく書かせていただく所存です。
 
 もちろん、筆者は少なからず多くの有名シェフにお目にかかってきました。例えば、先年は台北でヤニック・アレノ氏にお目にかかり、一緒に写真も撮らせていただきました。しかし、筆者にとってグランシェフと言えば、「ル・マエストロ」の思い出と共にボキューズ氏に尽きるのです。ここに心から追悼の意を表し、ボキューズ氏のご冥福をお祈りしたいと思います。
「メルシ・ボク、マエストロ・ボキューズ」、そして、「アデュー」。
 

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