美食批評への誘い  Vol.11~15

クリティーク・ガストロノミック

 
フランス現代思想家

関  修(せき おさむ)

第十一回
星の意味の変化

 予告しました『ゴ・エ・ミヨ 東京・北陸 2017』における「期待の若手シェフ賞」受賞店への訪問及びその評価について、本稿執筆時、すでに「クラフタル」と「アビス」の二店について筆者のブログにアップさせていただきました(「関修のトポスアクティブ」、https://ameblo.jp/ozamyu/)。残るは「オルグイユ」のみなのですが、経済的事情もあり、一か月に一軒と考えておりますので、訪問は十月以降になるかと思います。八月は友人の希望で「フロリレージュ」を訪れます。フロリレージュはミシュランでは一つ星ですが、ゴー=ミヨでは17点、四トックとミシュランの二つ星、それも上位に相当します。つまり、ミシュランとゴー=ミヨの視点の相違が明確であり、それを見て取る必要がある興味深い店と言えましょう。また、九月には短期ですが初めて香港を訪れます。そこでは、パリで一つ星を獲得している「アクラム」(八区、トロンシェ通り七番地)の香港店で、ミシュラン香港版でも一つ星を獲得している同名の「アクラム」に参ります。こうした一連の店への訪問は、すべて、「クラフタル」と「アビス」を訪問した際にも痛感した、「星の意味の変化」と深く関係があります。そして、このことは前回会員頁に書かせていただいた「ミシュランの星は、一つ星が一番おもしろいのではないか」という筆者の考えにつながるのです。そこで、今回はこの件について書かせていただこうと思います。
 
 ご存知のように、ミシュランの星は三つが最高です。日本版はフランス版の規定をほぼ忠実に踏襲しています。三つ星は「旅行する価値のある(Vaut le voyage!)」。二つ星は「遠回りしてでも訪れる価値のある(Vaut le détour!)」。ただし、一つ星はフランス版と異なっています。フランス版はそれまでの流れを受けて、「足を運ぶ価値がある(Vaut l’étape !)」となっているのですが、日本版では省略され、「そのカテゴリーで特においしい料理」とだけ規定されています。「そのカテゴリー」にあたる表現はフランス版にはなく、「特においしい」はune grande finesseの訳なのでしょうが、正確には「極めて上質の」といったニュアンスではないかと。二つ星は日本版では「素晴らしい料理」とありますが、元はd’exception、「例をみない」、「尋常でない」といった感じ。三ッ星は「卓越した」とありますが、原語は端的にunique、つまり「唯一無二」という規定です。つまり、想定されるフランス料理の最上レヴェルが一つ星、二つ星はそれを超えてしまっている、三つ星になると他に比べるものがないと言っているのです。ここからもわかりますように、フランス版では一つ星から三ッ星へと段階的に上昇する。つまり、まずは星を取ること。取った暁には二つ、三つへとさらに歩を進めていくことが想定されています。ところが、日本版は「料理」につく形容詞が、「特においしい」、「素晴らしい」、「卓越した」と段階的上昇が理解しづらい曖昧な表現なのです。しかも、一つ星だけ、「足を運ぶ価値がある」が省略されている。つまり、「一つ星」と「二つ星・三ッ星」の間にはある「断絶」があると考えられます。
 
 それは、日本のミシュランではラーメン店・焼き鳥店などが星を取っていることから理解することができます。日本版で付加されたあの「そのカテゴリーで」は、まさしく「ラーメン」、「焼き鳥」などを想定してのことだったのでしょう。星を取っているからと言って、フランス料理愛好家に一つ星のラーメン店へ「足を運ぶ価値がある」と言えるでしょうか。確かに、パリ版でも例えば、今年二区の「Sushi B」が星を取りましたので、パリっ子に寿司屋へ「足を運ぶ価値がある」かと言えば、実はあります。パリ版の場合、三つ星、二つ星にフランス料理以外の店はなく、一つ星のこのSushi Bも夜は160ユーロ、二万円越えです。つまり、一杯1000円ほどのラーメンが出る店に星をつけるという発想ではないのです。逆にここから言えることは、ラーメンなどと肩を並べる日本の一つ星クラスのフランス料理店はフランス(おそらく世界中)に比べて、随分と安いということです。実際、筆者が九月に訪れる予定の「Akrame」も今年、星を取ったのですが、パリ本店はディナーが150ユーロ、約二万円、香港店でさえ、1188香港ドルで17000円ほど。既述の「クラフタル」など夜のコースが7000円で一つ星なのですから、お得感満載です。
 
 しかし、フランスでも(とりわけパリでは)、一つ星と「二つ星・三ッ星」の間にはある種の「亀裂」が生じていると思われるのです。それは、まさしく「ビストロノミ」の登場によるフレンチの在り方の変化が原因と考えられます。ビストロノミとは、ビストロとガストロノミの合成語で、星付きレストランの味をビストロ感覚で楽しめる店という意味です。建築でいえば、装飾を排し機能性を重んじるモダンスタイルとでも言えましょうか。食材に日常性を持たせつつも技術などは最新最上のフレンチで、空間もゴージャスさよりはシンプルでお洒落な趣。コスト面でも、アラカルトよりはお任せコースにして、カリテプリを追求するといったように。代表的な名店としては、2008年にパリ五区に開店し、現在一つ星を獲得しているサンドラ夫妻による「イチネレール」を挙げることができるでしょう。星を取る前は50ユーロほどでしたが、現在はアラカルト、コース共に100ユーロ、13000円ほどが目安のようです。つまり、店のコンセプトそのものが一つ星をある種終着点とするもので、二つ星以上を狙うと、ビストロノミではなくなり、グランターブル、つまり高級店に宗旨替えしなくてはならなくなるのです。
 
 筆者が訪れた「期待の若手シェフ賞」の二店は、この点で対照的でした。「クラフタル」は店のコンセプトが、中目黒という立地からまさにガストロノミを絵にかいたような店で、7000円という価格とは思われないレヴェルの料理が次々と登場します。シェフをはじめスタッフ全員がエプロン姿など、カジュアルさの中に気の利いたサーヴィスやワインリストの秀逸さなどまさに「フィネス(上質さ)」が感じられます。ゴー=ミヨが高く評価するのも納得できます。ただし、もし二つ星以上を狙うなら、全面的な方向転換が必要とされるでしょう。それに対し、「アビス」はサーヴィスの黒服など、内装も含め高級店の雰囲気を味わうことができます。つまり、そのままステップアップして行けるスタイルです。料理を魚に特化しているのが特徴ですが、二つ星以上を狙うなら、肉料理に挑戦する必要が生じるでしょうし、サーヴィス、ワインなどにより高度な洗練さを求められるでしょう。
 
 このように、現在日本のみならず、フランス本国でも、一つ星を一つの到達点として、その中でより完成されたものを追求する店が増えています。享受する客の側もまた、同じ一つ星でも、そのスタイルの違いを把握し、それぞれの楽しみ方を探求する必要があるでしょう。筆者のごとき、貧乏大学講師では一つ星でさえ青息吐息ですが、その中に居心地の良い店を見つけたときの幸せには格別なものがあります(ブログ中の「シャントレルの夜」をご参照下さい)。皆さまが自分なりのお気に入りの一つ星を見つけられますことを!
 

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第十二回
レストランとは何か
――美食が現出する場(時空)――

 前回、星の意味が変化していることについて書かせていただきました。ミシュランの星はレストランに対して付けられます。つまり、星の意味が変化するというのは、レストランの在り方もまた変わっていくということに他なりません。先日、本リーファーワイン協会の下野会長とお話させていただく機会があり、会長より今こそ「レストラン批評」が必要であるという趣旨のご指摘をいただきました。この場合、注意すべきはあくまで「レストラン」に対する批評ということです。これは筆者が「料理評論」ではなく、「美食批評」が必要と説くことと一致していると言えます。何故なら、筆者の言う「美食」とは「料理」、「ワイン」、「サーヴィス」が同等に三位一体となってこそ可能となるからであり、これら三つの要素が一体となって現われ、展開される「場」こそ、他ならない「レストラン」であるからです。こうして、レストランの在り方が変わっていく以上、「レストランとは何か」と常に問題提起しつつ、それを吟味していく作業が欠かせないわけです。
 
 下野会長のご指摘は、店の内装、例えばかかっている絵がサル(ホール)の雰囲気や店のコンセプトにふさわしいものか、カトラリー類はどうか、など細部にわたるものでした。これは、長らく、ミシュランの調査員がまずチェックするのは店のトイレであったという都市伝説につながるものと言えましょう。その中で、筆者がお話を伺っているうちに、腑に落ちることがあったのです。それは、すでに本稿で名前を挙げた「アビス」で食事したときに感じた違和感の原因がわかったからです。会長は、最近のサーヴィスの人間は厨房に行って、料理の出来る過程をしっかり把握していないというご指摘でした。「アビス」は店の雰囲気がちょっと水商売風で気になるのですが、一つ星としては本格的というか伝統的な正統派のレストランのスタイルを継承しています。つまり、厨房は奥に潜んでいて、黒服のサーヴィス、ソムリエが客に対応する形です。「クラフタル」はシェフもサーヴィスも皆同じエプロン姿で、オープンキッチンからシェフ自らも何回か料理をテーブルに運んで説明してくれるというカジュアルなアプローチ。「フロリレージュ」はカウンタースタイルで、目の前の大きなオープンキッチンで十名以上が忙しく仕事に励み、一番奥でシェフが料理し、流れ作業で料理が完成していく。ソムリエもカウンター越しに対応するなど、劇場型の演出です。
つまり、クラフタルやフロリレージュは伝統的なレストランスタイルではない星付きの店なのです。
 
 その点でアビスはオーソドックスなスタイルだったのですが、何か変に感じたのです。そして、それは料理を運んで説明するのが「コミ」であったことだと下野会長のお話から合点がいったのでした。この場合の「コミ」とは調理場のいわゆるヒラの料理人のことで、黒服が仕切るホールの中で、エプロン姿の若い料理人が料理を持って現われ、テーブルの客にサーヴィスし、説明してまた消えて行く。さすがに皿を下げるのは黒服の仕事だったと思いますが。これは確かに正統的なやり方ではありません。サーヴィスはあくまで客に対するサーヴィスである以上、皿を出して料理の説明をするのはサーヴィスの人間の仕事なのです。すでに書きましたように、サーヴィスの歴史的源泉はエキュイエ・トランシャン、肉の切り分け係だったわけで料理に精通していなければ仕事ができないはずです。そして、飲み物のサーヴィスをするエシャンソンがソムリエに該当するのでした。思えば、黒服が仕切る高級感あふれる空間に場違いのエプロン姿の人間が登場すること自体が「ふさわしくない」のでした。しかし、今の主流はコミが料理を出して説明するのが当たり前のようになっているのです。しかし、それはレストランの形態が異なっているからです。フロリレージュのように、シェフは一番奥ですから最初にご挨拶に来たものの、後は帰りの際の挨拶もなく、料理は流れ作業の最後の仕上げをしたコミが完成品を出して説明する。クラフタルは皆が同じ格好ですから、サーヴィスなのかコミなのかシェフなのか、注意しない限りわかりません。でも、皆がきちんと料理の説明が出来るのは感心しました。システムの問題なのです。フロリレージュもクラフタルもそれぞれ、独自の合理的なシステムで人が動いています。
 
 ただ、アビスの場合、グラン・メゾンを目指すならば、やはりサーヴィスが料理を運び、説明するべきでしょう。確かにコミは料理を作っているのですから、その料理について説明できるに決まっています。しかし、サーヴィスが調理場に入って料理の作られて行く様を自分の目で確かめ、味見する必要を下野会長が説かれる際、会長のおっしゃりたいのは、サーヴィスならではの料理へのアプローチがあるということではないでしょうか。つまり、お客様にこれから食べていただく料理をどのように伝えれば、より感動を与え、堪能していただけるかを念頭において、料理に対峙するのです。コミが客の前で料理の説明をするのは合理的に見えるかもしれません。しかし、それは裏を返せば、客はどうせ料理のことについてわかっていないのだから、ヒラに説明させれば充分という、客を上から目線で見ている姿勢とも解釈できるのです。料理について「説明する」のではなく、実は「教えてやる」的な。サーヴィスの方々も料理の説明をコミに任せてしまっては、ただの給仕でしかないことになってしまいます。サーヴィス(ソムリエも含む)は何よりそれぞれの客に寄り添いつつ、このひと時をどうすれば楽しんでいただけるかを常に考えて行動しなければなりません。その結果、客もまた自分がどう振舞えばよいかを自ら知るようになるのです。
 
 アビスの目黒シェフはサル(ホール)に一度も姿を現わしません。しかし、帰ろうと店の外に出ると、そこにシェフは待ち構えていて、ご挨拶して下さるのです。これは嬉しいサプライズです。でしたら、サルにコミを出してはなりません。厨房はあくまでブラックボックスになっているのですから。その感動を伝えるのはサーヴィスの仕事です。つまり、厨房の関係者、しかもヒラがサルに登場しては、「隠されていること」が台無しではありませんか。果たして、目黒シェフもまた全身真っ黒なコックコートでお出ましなのですから。
 

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第十三回
一つ星というレストランの在り方
――「シャントレル」を例に――

 まず、レストランの在り方に関するここまでの議論を簡単に整理してみましょう。ミシュランの星に代表される格付けは一つ星から三つ星への段階的昇格というのが最近までの通念でした。ところが、ビストロノミが普及し、グランメゾン級の料理をよりカジュアルに楽しむというスタイルが定着し、レストランという「場」の在り方も、装飾的なものを省いたモダンなスタイル(建築における近代化に比例する)やカウンター中心といった今までのレストランのサルとは異なった空間で展開されるようになって来たのです。しかも、そうしたビストロノミを代表する店が星を獲るようになりました。その象徴的な例として、パリ五区のサンドラ夫妻による「イティネレール」が挙げられます。そして、同じパリ五区にあるかの名店中の名店「トゥール・ダルジャン」もまた現在は一つ星であることを思うと、一つ星の店というのはトゥール・ダルジャンのように再び三つ星に返り咲くことを目指すグランメゾンとイティネレールのように一つ星がビストロノミという美食の在り方としては最高峰と言えるレストランとに二分されると考えられるのです。
 
 こうした観点から筆者が最近訪れた日本の一つ星レストランを考察すると、「アビス」はグランメゾンをそのまま目指せるスタイルで、「クラフタル」と「フロリレージュ」は後者ということが出来るでしょう。「アビス」の場合、星を増やしたいなら、コミが調理場から料理を持ってきて客に出し、説明するのを改め、グランメゾンのセルヴィスの在り方を採用すべきです。つまり、セルヴィスが調理場とそこで作られる料理に精通し、「客に必要な」料理の説明を適宜行なうというセルヴィスを怠らないことです。コミはサーヴィスのプロではありません。そのようなコミが客に対応するというのはグランメゾンではあってはならないことです。一刻たりとも客へのサーヴィスが疎かになってはならない。
 
 それに対し、「クラフタル」も「フロリレージュ」もサルのスタッフはシェフも含め、皆同じ服装をしています。つまり、一見して誰がそれぞれ、料理人、ソムリエ、セルヴィスなのかわからないのです。というか、クラフタルの場合はシェフ自身が、セルヴィスと同じように、客のテーブルに皿を持って現われ、料理の説明をしてくれます。フロリレージュの場合、シェフは広いオープンキッチンの一番奥で料理に集中しておられますが、他のスタッフは一人何役もこなしているという風です。それでも、クラフタルはカジュアルさを強調する方向性を示し、フロリレージュはカウンターに特化することで、ステーキハウスや高級寿司店のようなゴージャスさを演出しようとの対照的な印象を受けることでしょう。しかし、ここでもセルヴィスの不徹底やソムリエの存在の不透明さといった問題が生じます。何故なら、料理人、セルヴィス、ソムリエといった専門職が「スタッフ」という言葉で一元化されてしまい、実際、専門的な仕事に徹している人間がいなくなってしまっているからです。
 
 確かに、これがビストロノミの一つ星の在り方だと言ってしまえばそれまでかもしれません。しかし、同じ一つ星を獲っている以上、トゥール・ダルジャンと並んでも恥ずかしくないビストロノミならではのレストランのスタイルがあるのではないでしょうか。それは、筆者のいう料理、ワイン、サーヴィスという「レストランの正三角形」をビストロノミのレストランが「それぞれ」、自身の店に合った形でどう展開させることが出来ているかという問いに集約されるでしょう。この場合に重要なのは、グランメゾンと異なり、人的にも資金的にも簡略化されているビストロノミのレストランはそれぞれに店の事情というのがある以上、「レストランの正三角形」の構成の仕方もそれぞれ異なっているということです。そこで、今回は筆者が足繁く通っている「シャントレル」を例に、この店がどのようにこの「正三角形」を描いているかを分析し、バランスよく正三角形が描き出されているからこそ、筆者もまたこの店を高く評価し、足を運ぶにふさわしいことが明らかになるでしょう。
 
 この小さな一つ星レストランは、テーブル席が六席とその奥にオープンキッチンがあり、キッチンの一部と対面になる十一名用のJ字型のカウンターが入り口すぐから奥へと続いています。結論から言えば、このレストランにおける料理、ワイン、サーヴィスのすべての要素は中田雄介シェフに集約され、それを熟知して食事に臨めば、一つ星ならではの「レストランの正三角形」を堪能することが出来るのです。この店ではシェフ以外のスタッフは黒子に徹します。オープンキッチンのオープン部分はシェフが料理する空間で、店の奥ではありますが、入り口からその姿が見えます。逆に、ほかのコミが働く場はさらに奥でカウンターからは見えません。客が入ってくれば、シェフがイの一番に「いらっしゃいませ」とハキハキとした通る声で出迎えてくれます。そして、サーヴィスさらには手の空いているコミもそれに続いて「いらっしゃいませ」と迎えてくれるのです。
 
 そして、デギュスタシオンの説明もシェフが自ら行います。そして、アペリティフはサーヴィスが対応しますが、ワインはシェフが管理し、ワイン選びを助けたり、リストから選んだ際は、シェフ自らセラーに出向き、ワインを探します。サーヴィスは抜栓するとシェフにテイスティングを頼み、OKが出ると客にサーヴィスするのです。このシェフによるテイスティングの効果は、上等なワインの時などワインに合わせてソースや付け合わせを替えるなど、基本は同じデギュスタシオンながら、それぞれの客によって微妙にソースや料理が異なって来るというヴァリエーションをもたらすことになります。さらに、一つ一つの料理の説明もシェフが行います。コミはもくもくと自分に課された仕事をし、シェフと一緒に皿を仕上げて行くのです。皿を運ぶのはサーヴィスの仕事でコミは満席でサーヴィスの手が足りないと思われるときだけ、料理を運ぶことがありますが、原則キッチンから出ることはありません。シェフは料理するだけでなく、ワインを取りに行ったり、客のところへ行って料理の説明をしたりと八面六臂の活躍です。つまり、レストランの正三角形のそれぞれの要素の肝心なところ(料理の火通しとソース、ワインの管理とテイスティング、サーヴィスにおける出迎えと料理の説明)をすべてシェフが行い、他の部分をコミやサーヴィスがそつなくこなしていくというスタイルなのです。しかも、シェフは仕事を的確にこなしつつ、聞き耳を立て、それぞれの客にふさわしい食事にしようと気を配っています。同じデギュスタシオンでも、これを食べよと押し売りするのとは異なり、自分の出来ることに限りがあるので、オーダーメイドとはいかないが出来る限りレディーメイドにしようという理想を追求しつつも現実に対応した考えです。ワインのチョイスだけでなく、客の話しぶりから他のテーブルとはソースを替えてみる。また、筆者はある時、卒業間近の学生を連れて行ったのですが、食事が始まってそのことを知ったシェフは、デセールの際、まず通常の四種類から選ぶデセールを出した後、さらに「卒業おめでとう」と書かれたプレートをこっそりパティシエールに準備させ、即興で出して下さったのです。シェフとのコミュニケーションの中で客は自分に適した食事をすることが出来るという訳です。
 
 もちろん、欠点がない訳ではありません。すぐ推測できるのは、シェフの体調が悪いだけでもクオリティが下がってしまうと言うことです。病気になられたら、明らかにクローズです。また、シェフはある種の理想主義者ですので、コミやサーヴィスに厳しくあたることが多々あります。筆者は理にかなっていれば問題ないと思うのですが(ハラスメントでなければということです)、筆者の女性の友人でシェフが目の前で叱っているのを見るのが不快であると言われた方がいました。また、狭い店でオープンキッチンなので、店に入るやいなや料理の匂いが漂って来るのです。筆者はこれこそ、五感を最大限に働かせて美食を堪能するためのアペリティフだと考えているのですが、自分の食べている皿と違う匂いがするのは許せないという意見が「食べログ」などを見ると散見されるのも事実です。
 
 要は、レストランを客がどのようなものとして捉えているのか、また、客がレストランを上手に使いこなせているのか、といった問題に行き着くことになります。目の前に置かれた料理からの香りだけを楽しみたいのなら、広いサルを有するグランメゾンに行かれることをお勧めします。シャントレルに来るのは「カテゴリーミステイク」に相当します。また、筆者はシェフの目の前のカウンター席でないと行く気になりませんが、常連客に家族でテーブル席を個室的に使われている方がいらっしゃいます。店のスタッフ、他の客に気兼ねすることなく、家族団欒のフレンチを堪能するなんて、何と贅沢な楽しみ方でしょう。
 
 客は受け身であってはなりません。出かけるレストランと自ら真摯に向き合うことが大切です。それは「我儘」とも異なります。それどころか、目の前の皿、注がれたワイン、自分に提供されたサーヴィスに、襟を正して、その「真価」を堪能するよう心がけねばなりません。それこそが、「美食」に他ならないのですから。
 

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第十四回
批評と「フランス料理の現在」
――『フランス料理の歴史』を読む――

 今年三月、J=P・プーラン・E・ネランク、山内秀文訳、『フランス料理の歴史』の文庫本(角川ソフィア文庫)が公刊されました。原書は、料理人、とりわけフランスのホテル・調理関係の学校で学ぶ学生を対象に書かれたとのことで、初版は一九八八年。この文庫版は、二〇〇四年に出された五度目の改訂版を翌二〇〇五年に翻訳出版された単行本(『プロのためのフランス料理の歴史』(学習研究社))の文庫化という位置づけになります。そこで、加筆修正の他に、訳者による「フランス料理の現在(2005-2016)跋文に代えて」が付け加えられています。原書は原始時代から「エル・ブジ」のフェラン・アドリアらの登場でフランス料理の地位が揺らぎ始めた時点まで、通史的に、それぞれ時代区分を行ない、簡略かつ的確に記述されています。また、各章末には当該時代の重要人物の略歴が掲載されています。例えば、「中世」ではタイユヴァンが、「大革命期」ではブリヤ=サヴァラン、グリモ・ドゥ・ラ・レニエ―ルらといったように。四〇〇頁に及ぶフランス料理の歴史については、ぜひ一読をお勧めするとして、筆者が注目したいのは、原著の最終章が「二つのガストロノミーの対立」と題されていることであり、訳者がそれを受けて執筆された「フランス料理の現在」という別の著者によるテクストとの関係なのです。
 
 まず、原著の書名を直訳すると『料理と料理人たちの歴史』というタイトルで、フランスという記述はありません。ここには、料理とはフランス料理以外に考えられないという料理界におけるフランスの「中華思想」が垣間見られるように思われます。しかし、原著の最終章が「料理」ではなく、「ガストロノミ」=「美食」の「対立」となっているのは何故でしょう。筆者の考えは、いわゆる「料理」には世界中様々なものがあるとしても、「ガストロノミ」というレヴェルまで料理が高められたのはフランスだけ(だったの)ではないかと著者が理解しているように思われるのです。実際、「列伝」は上記のようにブリヤ=サヴァラン、グリモ・ドゥ・ラ・レニエ―ルといった料理人ではなく批評家が登場します。また、「19世紀●フランス美食の黄金時代」の書き出しは、「フランス料理の真の「黄金時代」となる19世紀を迎え、万国共通の美食のモデルを生み出す大原則が確立した」と章のタイトルも含め、料理と美食が同列に扱われています。「フランス料理」が万国共通の「美食」のモデルとなったこと。それ即ち、「フランス美食」の黄金時代である、と。
 
 そして、その大原則のいの一番が「食卓でのサーヴィスの進め方の重大な変化」、サーヴィスのフランス式からロシア式への移行です。「このころからメートル・ド・テルの役割が重要になってくる。芸術的かつ外交的な手腕をふるい、客の要望を瞬時に理解してそれをかなえるのである」。これまでも事ある毎に書かせていただいたように、レストランで食事するという行為におけるセルヴィスの重要性は歴史的にも実証されていることが明らかとなるでしょう。そして、それこそがまさに「美食=ガストロノミ」なのです。
 
 さらに、著者は興味深い見解を披露しています。少々長くなりますが引用させていただきます。「美食の創造性は、三つの要素が形づくる三角形の上に築かれている。まず、一点はシェフ。技術者で、時に芸術家である。行動し、制作し、発明するが、発言することは稀である。対する側に客の存在がある。客は導かれ、教えられる必要がある。この二者の求めに応じ、批評家は仲介者の役割を演じる。批評家は、想像に方向性を与え、認知し、そしてシェフたちのとる姿勢に仕上げを施すことに貢献する。なぜなら、シェフたちは、批評家から刺激を受けて、創造性に磨きをかけ、それを表に顕わしてゆくのだから」。「批評家」を名乗る筆者としては身に余る光栄に思う次第。ここでのポイントは上記の三要素が重要な役割を果たすのは「美食」そのものではなく、その「創造性」に関して、であるということです。しかも、この一文が見出されるのは、「それにしても、フランスの批評はどこへ行ってしまったのか」という小見出しのつけられた部分です。つまり、「エル・ブジ」などフランス以外のガストロノミが台頭する中で、フランス料理独自の新境地を切り拓くためにも、批評家にはしっかりして欲しいという叱咤激励のお言葉なのです。
 
 そして、著者が導き出した結論。それは「美食の迷走」でした。それは、「美食体験の中で味覚が食べるという行為に優越するようになる」こと。つまり、口に入れた瞬間が重要視され、食事するという行為全体の様々な感覚の融合や統合が顧みられなくなったというのです。簡潔に言えば、すべてがテイスティングに先鋭化してしまったことへの批判と言えましょう。ワインにおける「酩酊の文化」の軽視が先行し、料理もデギュスタシオン一本になってしまったではないか。しかも、「エル・ブジ」などでは、実際三十品から五十品もの料理が出されている、と。筆者もこれには一理ありと賛同したいと思います。というか、すでに筆者が述べてきたことと著者の見解には共通する部分があることはおわかりでしょう。筆者がデギュスタシオンを批判するのは客が何も選べないからです。確かに、その日仕入れた最良の食材で最高の料理を出してくれるのかもしれません。しかし、客としては高価な金を払うのですから、自分の食べたいものを食べるのが当たり前だと申し上げたいのです。この意味で、「レストランで食事すること」そのものが軽視され、まさに「味覚」が最優先されるのは本末転倒であると筆者は繰り返し主張して来ました。
 
 さて、筆者が気になるのは二〇〇五年以降の「フランス料理の現在」に関する訳者による補遺です。訳者はその冒頭、著者によって「美食の迷走」と評された状況は、「現在ではもはや『迷走』ではなく、ガストロノミーの主流のひとつとして定着したと断言してもよいだろう」と記しています。そして、「エル・ブジ」以降の「オート・キュイジーヌ」の流れを概観し、一九七〇年代以降の日本のフランス料理の流れにも言及しています。さらに、「フランス料理におけるジャポニズム」としてフランスで星を獲っているフランス料理の日本人シェフの存在が指摘されます。そして、その結論は、「フランスには今も多彩な才能が現れているが、彼らはグローバル化したオート・キュイジーヌの世界では、世界に散らばる優秀な料理人の一部に過ぎないともいえる。フランスは今後も『フランス料理』の中心であることに変わりはないにしても、グローバル化が進む限りは、これまでのようにオート・キュイジーヌの覇権を独占する状況に戻ることは難しいだろう」と締め括るのです。ごもっとも、客観的に正しい現状分析であると思います。ただし、それこそが著者のいう「批評」の欠如ではないかと思われるのも事実です。
 
 それが端的に顕われているのが、「エル・ブジ」のフェラン・アドリアによる「料理革命」について項目別に要約を行なった際の「サーヴィスの形態」という項目の記述です。以下、全文。「30品内外の料理を小ポーションで提供する。プーランは『グリニョタージュ(つまみ食い)』と呼んで批判しているが、味覚を優先する少量多品種のサーヴィスは、フランスを含む世界のガストロノミー・レストランの主流となった。このようなレストランではほとんどがコースのみで、料理の流れはすべて店側がコントロールし、19世紀以来の伝統だったア・ラ・カルトは消え去りつつある」。
 
 訳者は著者に寄り添っていないのが気になります。著者が「グリニョタージュ」というのは、味覚ではなく食事することが「美食」の美食たるゆえんであるからでしょう。オート・キュイジーヌはガストロノミー・レストランで供される料理である。アドリア方式が世界の主流になったのだから、デギュスタシオンで何が悪いという論理は、勝てば何をやっても構わない、「今」主流のものが正しいのであって、それにケチをつけるのはいちゃもんに等しいと言わんがごとくです。これこそ、「批評」の欠如以外の何ものでもない、現状肯定主義の典型と言えましょう。
 
 しかし、筆者が驚いたのは「料理の流れは店側がコントロールし」と書ける神経です。この文を書いた人間は自分の立ち位置をどう捉え、何に向けて書いているのか。客観的であることと高みの見物を決めこむことが同じであるとでも思われているのでしょうか。「コントロール」とは上手にカモフラージュしていますが、要は「客を店側が管理=制御する」と言っているのです。レストラン批評はあくまで「客」の側から「食事する」ことを捉え直すこと。まさしく、ガストロノミは民主主義的な(今風に言えば、リベラルな)視点から追求されるべき事柄ではないでしょうか。従って、「客を店側が管理する」などと書くとすれば、それはあってはならない由々しき事態として批判するためにあえて言及する以外にあり得ないのです。結局、著者が指摘した「批評」の欠如は何ら改善されることなく、従って、「美食の迷走」状態は依然続いているというのが真実であると筆者は考えるのです。
 

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第十五回
媒介項としてのセルヴィス
――メートル・ド・セルヴィス杯観戦記①

 二〇一七年十月三十日、第十七回メートル・ド・セルヴィス杯決勝が学士会館精養軒にて行なわれました。これは、サーヴィスのコンテストで当協会会長、下野隆祥氏が名誉審査委員長を務められています。同時に料理のコンテスト、メートル・キュイジニエ・ド・フランス・“ジャン・シリンジャー杯”も行なわれ、同日夕刻より、表彰式及びパーティーが明治記念館にて行われました。筆者はセルヴィス杯の決勝観戦、およびパーティーに参加した次第です。多くの貴重な体験をさせていただきましたが、本稿では、筆者の唱える「レストランの三角形」におけるセルヴィスの位置づけについてと、ソムリエを兼任する形でのサーヴィスでしたのでワインに関しての二点だけを、二回にわたり論じてみたいと思います。なお、サーヴィス全般、またコンテストの概要などは、下野氏の書かれた『世界一のサービス』(PHP新書)をご参照ください。
 
 さて、今回の決勝の審査方式は、ファイナルに残った五名が同時に、各テーブル四名のお客様のサーヴィスを担当するというもので、お出迎えからお見送りまで二時間半の制限時間の間に、アミューズからデセールまで六品の料理を様々なテクニック、方式を駆使してサーヴィスし、また本来ならソムリエが担当するワイン及び飲み物全般をも受け持つという盛りだくさんな内容のものでした。また、セルヴィスはテーブルを離れることが一切できませんので、「学生部門」として、これもまた決勝に残った調理師学校に通う学生がコミとして各ファイナリストに一人ずつつき、審査の対象となるいう複雑なもの。審査員は各テーブルの客の中に一人、各テーブル専従の審査員、さらに下野氏ら全テーブルをくまなく回って採点する者の三様であったとお見受けしました。さらに、各テーブル四名の客のメンバー構成は、外国人(フランス人)が一名、女性客が少なくとも一人はいるというものでした。テーブルの配置は長方形のホール手前入り口から二卓ずつ三列、一列目奥が一番で、手前が二番。三列目だけ一卓。ホールの壁に沿ってぐるりとテーブルを囲む形で観戦するので、ギャラリーが競技中に動き回るのはなかなか難しく、ほとんどが同業者ということもあり、お目当てのファイナリストのテーブル近くで皆さん観戦しているようでした。筆者は人の流れに沿ったところ、結果、一番テーブルのところで見ることになりました。隣の二番、後ろの三番は良く見えたのですが、斜め後ろの四番、とりわけホール一番奥の五番はほとんど様子が窺われず残念でした。
 
 まず、ファイナリストの五人を見て気づいたことが。それは、ホテルのセルヴィスと街場のレストランのセルヴィスの違いが一目瞭然ということでした。何よりまず、外見からして違います。ホテルは黒服で、ホテルごとにユニフォームとしてデザインに微妙な違いがあるようでした。街場のセルヴィスはお洒落な上質のスーツ。テレビに出てくる若手経営コンサルタントとか、高級宝飾店のイケメン店員とかを想像させるようないで立ちです。髪の毛も、ホテルはポマードでぺったりと乱れることなくセットして、街場はサラッと清潔感あふれる髪型で。主流はあきらかに後者であると確信しました。というのも、二〇一二年に世界大会が日本で行われた際優勝したカリスマセルヴィス宮崎辰氏がこのスタイルだからです。当時、宮崎氏は恵比寿ガーデンプレイスにあるグランメゾン、ジョエル・ロビュションにお勤めで、現在は独立され、コンサルタント業を営まれています。偶然にも、筆者の目の前の一番テーブルの専従審査員が宮崎氏でした。すらっと背が高く、細身のスーツを粋に着こなした華のある方です。
 
 そして、ファイナリストにもひときわ目立つセルヴィスがいたのです。三番テーブルの方で、自らがサーヴィスするパフォーマンスを俳優が芝居を演じるがごとく、テーブルの客を釘付けにしながら行なっていったのでした。例えば、メインのホロホロ鳥をまるごとロティしたものを各部位ごとに切り分ける(トランシェ、デクパージュ)作業、とりわけ胸肉を薄く削ぎ切りにするのは手際よく美しく切り分け、見事でした。テーブルによっては下手にひいたかんな屑のように、形も薄さもバラバラといった惨憺たる結果に。プロでもそうなってしまうかと、高度な技術を要求されるのがわかりました。また、客と常に会話し、セルヴィスを中心としてテーブルの一体感が感じられました。その証拠に、全行程が終了し、惜しいことにあとはお見送りだけというときにタイムアップになってしまったのですが、彼のテーブルのお客様がそのサーヴィスを讃えて、四人で拍手されたのです。そんなことはこの三番テーブルだけでした。後のパーティーの際配布された資料で知ったのですが、やはり、この方は銀座の名店中の名店ロオジェのセルヴィスでした。
 
 しかし、誰もが三番が優勝かと思いきや、入賞はしたものの優勝したのは四番テーブルのセルヴィスでした。すべての課題を時間内に唯一終えることの出来た五番テーブルも入賞どまり。五番テーブルが筆者からは良く見えず詳細はわからないのですが、セルヴィスの方の雰囲気は三番テーブルに近く、タキシード風のユニフォームこそ着ていたものの、華やかでやはり話上手なパフォーマンスはホテルの方ではないと思いました。やはりこの方もメゾン・ド・タカ芦屋というウエディングも備えた街場のレストランのセルヴィスでした。そしてそう、優勝した四番テーブルこそ、筆者が一目見てホテルの方だと思ったその人だったのです。実際、筆者も何度も泊まったことのある大阪の老舗、中之島にあるリーガロイヤルホテルのセルヴィスだったのです。四番優勝の理由については、下野氏から聞いた説もあるのですが、それは会員頁で検討することにして、筆者の見解を述べておきたいと思います。
 
 事はいたってシンプルだと思われます。この場はセルヴィスのコンテストですのでセルヴィスが主役ですが、本来、レストランで食事をする際、主役なのはセルヴィスではなく、客であるということです。しかも、ホテルのサーヴィスマンには、ドアボーイから様々な種類のサーヴィスがあり、その組織の中にレストラン部門がある。これらのサーヴィスはすべて、お客様が快適にホテルを活用されることを意図しています。従って、セルヴィスは黒子に徹することが求められるでしょう。それに対し、街場のレストランは話題性が店の繁盛に繋がり、また他店との差異こそ、顧客獲得にも一役買うというものです。カリスマソムリエやカリスマセルヴィスはシェフのみならず、店の顔となり得るのです。しかし、それは一方、一つ間違うとカリスマ見物のディナーショーに成り兼ねない。実際、筆者もよく知るテレビにも引っ張りだこだった某イケメンシェフの店がトラブルを起こし、それが原因かは知りませんが店は休業なのか閉店なのかわからないような状況に。ロオジェのセルヴィスの方はコンテスト向きではありますが、自分が店に行って同じように振舞われたら、ちょっと引くというか、口は達者そうですが、ワインの扱い方など「?」の部分が多々あり、筆者など「それ、おかしくない」と思わず突っ込んでしまいそうです。
 
 そこで、かの三番テーブルですが、客たちがセルヴィスに極めて協力的だったと言えるように思われます。つまり、この形式のコンテストのおもしろさでもあり難しさは、テーブルごとの客の雰囲気がまったく異なっていることで、セルヴィスのパフォーマンスに大きな影響を及ぼしていたと考えられることです。そして、そのキーパーソンはやはり、各テーブルに一人いるフランス人ではないかと思われます。三番テーブルは若い学生風の男の子で、後のパーティーでセルヴィスと英語で話しているのを見かけました。それに対し、筆者の目の前の一番テーブルは、四名中、フランス人が審査員でした。これはこのテーブルだけだったと思われます。東京にあるグランメゾンの二代目です。客の話に耳を傾けると、他の三人は神妙にフランス料理に関して様々な質問などして、それに対しフランス人が流暢な日本語で答える。や、突然、セルヴィスにフランス語であれこれ質問を投げかける。セルヴィスは一生懸命フランス語で返答していて感心したのですが、肝心のサーヴィスの手が止まってしまったり、その後の手順がぎくしゃくしてしまったりと大変そうでした。
 
 ある意味、その正反対だったのが二番テーブル。三名の日本人がフランス語が堪能らしく、食事中ほとんど、フランス語で会話することに。中でもご婦人がよく響くフランス語で楽しそうに話に没頭されるので、セルヴィスがコミュニケーションを取りづらくなってしまい、ただただ給仕に徹するばかりといった風に。よく言えば、これこそフランスのレストランでよく見かける光景なのですが、客同士が和み過ぎて、肝心のセルヴィスへの関心が余り感じられなくなってしまったのも事実です。その点、四番、五番テーブルは筆者から遠かったせいもありましょうが、客も中庸で、セルヴィスが平常心でサーヴィスしやすかったように思われます。
 
 他方、厨房との往復はすべて、コミが行なうことに。コミは当日、誰の助手を務めるか言い渡されるとのことで、ゴルフのキャディーのようには行かず、お互いに意思の疎通が大変だったと思われます。セルヴィスは厨房と客との媒介項なのであり、だからこそ、以前書いたように下野氏が「今のセルヴィスは厨房に顔を出さな過ぎる」と憂いておられたことが、形を変えて現出したように思われた次第です。コミに出したオーダーを、コミが正確に厨房に伝えたとしても、その準備が整うタイミングはセルヴィスが希望する通りにはならない場合が多々見受けられました。料理のセッティングはできているのに、イギリス方式に各皿へサーヴィスする肝心のソースが全然出てこない、など。これらは通常であれば、自身で厨房に出向き、様子を見ながらタイミングを計るのでしょうがそれが出来ないので、コミに希望を伝えるしかない。コミもテーブルの様子を伺いに、ひっきりなしに厨房との間を行き来するような訳にはまいりません。五人のコミの出来に格別な出来不出来はなかったように思いますので、セルヴィス個人の力量の他に、テーブルの客との関係性がパフォーマンスに大きな影響を与えたと考えられるのです。
 

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