美食批評への誘い  Vol.16~

クリティーク・ガストロノミック

 
フランス現代思想家

関  修(せき おさむ)

第二十六回
何のためのソムリエ?
――台北でワインを飲みて思うこと――

 前回に引き続き、過日の台北旅行でワインを嗜んだ際、感じたことを書かせていただこうと思います。日本でフレンチに出かけるのを日常とした場合、外国に行っていつも通りにフレンチに出かけることの意義を前回は書かせていただきました。今回はそのような行動をした場合、日本では当たり前と思われることが外国では当たり前ではなく、その時、ふと立ち止まって事の本質とは何なのだろうかと考えさせられることがあるという話です。ちなみに、日常的な当たり前さを哲学では「臆見(doxaドクサ)」といって、「認識(episteme エピステーメー)」とは異なったものと理解されています。古代ギリシア語のエピステーメーがラテン語ではスキエンティア、英語のscienceの語源になる訳です。つまり、臆見とは往々にして間違っている場合がある、少なくとも普遍的真理ではないということです。
 
 さて、そんな場面に遭遇したのもあのアンバサダーホテルのステーキハウスA CUTでのことでした。前回も書きましたように、筆者はそのワインリストが実際見たくて出かけたのでした。というのも、ホテルのHPA CUTの紹介の項に親切にもワインリストが公開されているからです。https://www.ambassador-hotels.com/images/files/taipei/dining/a-cut/wine/A%20CUT%20Wine%20list.pdf
 
 PDFで五十六頁にわたる見事なリストです。フランスに限らず、世界中のワインをリストアップさせているのが今風と言えましょう。赤ワインの王道、ボルドー、ブルゴーニュに関しては、ボルドーの方が数は少なく、全体的に格付けワインでも高級なもののヴィンテージ違いを揃えている傾向があります。ブルゴーニュはコート・ド・ニュイが充実しているのが嬉しい。一番北に位置するマルサネからボーヌに接するニュイ=サン=ジョルジュまでどのアペラシオンも万遍なく揃えていて選び甲斐があります。ボーヌはやはり、銘酒のある(アロース)コルトンとポマールが中心で数も少なく、値段もニュイと変わらないのが面白い。日本の場合、ブルゴーニュのリストで値段の安い方はだいたいがボーヌのワインでニュイは真ん中より上というのが通例ですから。ということはニュイのワインを探すのが得策ということになります。確かにどのアペラシオンでもほとんど三千元台(一万数千円)のワインがリストアップされています。しかも、だいたいが二千年代一桁のヴィンテージ、十年ほど経った飲み頃のワインというのがプロを感じさせます。日本の場合、一万円を超えるブルゴーニュが(はるかに高価なものでも)二〇一四年とか平気でリストに載っているのですが、「それって飲み頃なの?」と思わずツッコミたくなってしまいます。
 
 余談になりますが、今回原稿を書く(二〇一八年十月下旬)にあたり、ワインリストを確認したところ、驚くことに気付きました。筆者が一か月ほど前の九月上旬に行った際、注文したジャン=リュック・エジェルテのモレ=サン=ドニ一九九〇年が、何と四千円近い千元も上がって四六〇〇元(約一万七千円)になっていたことです。リストのその前に記されているトルトショのモレ=サン=ドニは三四○○元で値段が変わっていないのに。これは一体どうしたことでしょう。おそらくは、筆者の飲んだブテイユが最後で補充しようとインポーターに問い合わせたところ、在庫はあるが以前卸した値段では出せないと言われ、千元値段を上げても安いくらいのワインだから注文し、リストに残したというところではないでしょうか。意地悪な見方をすれば、筆者が頼んでこのワインが安過ぎたことに気付いたので値段を訂正したとか。いずれにせよ、筆者は随分と得をした気分です。四六○○元ではきっとトルトショの方を選んでしまっていたからです。
 
 さて、リストの各アペラシオン中、先頭の方に記載されているもっともリーズナブルなワインとはいえ、一万数千円はする代物。筆者のような貧乏大学講師には大金です。思えば、席に案内して、ワインリストを持って来てくれたのは女性のウエートレスさんでした。ホテルですし、しかもフレンチではなく、ステーキハウスですから不思議でないかもしれません。筆者は以前、取材で六本木のグランドハイアットホテルのステーキハウス「けやき坂」を訪れたことがありましたがサーヴィスは女性だったと記憶しています。そして、ソムリエらしき人物は現われず、リストからそそくさと選んで(すでにHPで予習済みのリストでしたのでお目当てのワインを確認してすぐ頼んでしまったのです。同行者はそれを知らなかったので、しっかり見なくて大丈夫なのかと心配しておりました)ワインのオーダーも料理と一緒に担当のウエートレスさんにお願いしたと記憶しています。ワインには番号が振ってありましたので(ちなみに、筆者の頼んだワインはG-17-1 でした)、それは問題ないかと思った次第です。
 
 問題はワインを持ってやって来たのが若いウエーターだったことです。この段になって、不安になってきました。いくらこのレストランで安い方のワインとはいえ、一九九〇年のモレ=サン=ドニではないか。しかも、ここは老舗のホテルだぞ。ソムリエが馳せ参じて、恭しく抜栓するのが筋ではないか、と。もちろん、置かれたグラスは立派なブルゴーニュグラスで問題ありません。ウエーターはブテイユを傾け、エチケットを見せながら、このワインでよろしいでしょうかと確認をとりました。そう、正しい。ウエーターはソムリエナイフを取り出し、金属製のキャップを外します。そして、「やはり古いワインですので、コルク回りが汚れています。少々お待ちを」、とナフキンで汚れをきれいに取り始めたのです。そう、その通り。そして掃除が終わると、ハサミ型のワインオープナーを取り出したのです。これはプロングタイプと呼ばれる長さの違う二枚刃をブテイユとコルクの間に差し込んで回して引き上げて行くというヴィンテージワインを開ける際によく用いられるオープナーです。しかし、日本では、いや、フランスでもソムリエの方にプライドがあるのか、皆さんソムリエナイフで開けようとなさる。コルクにスクリューを差し込みますので、コルクが劣化していると折れたり、粉々になったり大変なことに。以前書きましたように、パリのあの天井の開く名店ラセールで、筆者のチョイスを拒否して、ソムリエが自分の薦めたピション・ラランド一九六九年を抜栓したら、コルクが粉々になり、それでも「ノープロブレム」とピンセットでブテイユに落ちた残骸を拾うと粉まみれのワインを飲まされた苦い記憶があります。台北でも実はそのような目にあったことがあるのですがそれは会員頁でお話させていだたくこととして、ともかくも当たり前のようにこのウエーター君はブロングタイプのオープナーで慎重かつきれいに抜栓してみせたのです。ボルドーほどではないもののこの時代のブションは今に比べて長く作られていましたので、「緊張しました」とホッとした様子のウエーター君。自らはテイスティングせず、筆者にテイスティング用のワインを注ぎました。
 
 もちろん、そのワインの見事さに筆者は大満足なのですが、ここに至って筆者は気づいたのです。そもそも台湾にソムリエっているの、と。ここで言う「ソムリエ」とは日本のソムリエ協会のような団体が認定した「資格」としてのソムリエです。つまり、世にいう「ソムリエ」が「ワイン専門の給仕人」とすれば(筆者はそうとは思いませんが)、別に資格がなくともワインに詳しいサーヴィスであれば、ソムリエと名乗ってよい訳です。たとえ、フランス、イタリアで国家資格になっていようと、ソムリエは資格そのものの名前ではありません。また、医師免許のような「免許」制で、免許を持たない者が従事してはいけないという事柄でもないのです。しかも、日本に至っては協会資格でしかないのですから。ネットで調べてみたところ、台湾ソムリエ協会なるものを発見できませんでした。つまり、おそらくは台湾には日本人の好きな葡萄のバッジを胸に付けた「ソムリエ」なる人物はいないのです。そう言えば、台北でソムリエに出会ったのはロビュションにいた(日本でも恵比寿にいたことがあると言っていた)フランス人のソムリエくらいで、ヤニック・アレノの店でいつもよくしてくれていた若者もソムリエではなかったのです。
 
 そして、肝心なのは上記の定義は「ワインの専門家」ではなく、あくまでワイン専門の「給仕人」ということなのです。彼ら/彼女らの職種はワイン評論家でもなんでもなく、あくまで「給仕人」=サーヴィスであることです。それが証拠には日本の場合、ソムリエ資格を取るには三年以上の「実務」が必要用件になっています。最近、酒販のための「ワインアドバイザー」が「ソムリエ」に吸収されてしまい、その実務が飲食サーヴィスだけではなく、酒販にまで拡大されましたが、結局一般人は「ソムリエ」資格を取ることが出来ず、「ワインエキスパート」になれるだけです。いくらワインに関する知識やセンスがあったとしても。それは飲食を生業としていないからに他なりません。つまり、少なくとも日本の「ソムリエ」は同業者組合=ギルドの一員ということなのです。これは医師会から農協まで同業者の利害を保全するための団体と同じなわけで、ワインを探求することを目的とした団体ではありません。それなのに、いかにも「ソムリエ」こそワインのスペシャリストのような風潮が少なくとも日本にはあります。そして、多くの勘違いした「ソムリエ」が偉そうににわか知識をひけらかして、肝心のサーヴィスがなおざりになるという目も当てられない始末。まあ、ラセールのとんでもソムリエもそうでしたから、日本人ばかりを責める訳にも参りませんが。
 
 それに比べ、オールドヴィンテージのワインを粗相なく開栓し、きちんとサーヴィス出来るA CUTのウエーター君の方がどれだけ「給仕人」として優秀なことか。もちろん、筆者はウエーター君にワインをご馳走しました。「パール・デサンジュ」、「天使の分け前」です。「もっと注いで良いよ」と言っても「これで充分です」と謙虚なウエーター君は目の前できちんとテイスティングして見せたのです。黒服でもなく、ソムリエバッヂもない。しかし、日本のお粗末な「ソムリエ」よりはるかに堂々と一連の所作ができるこの青年を見て、「給仕人」たる「本分」を忘れた「ソムリエ」たちに猛省を促したいと思うのは筆者だけでしょうか。今回の旅行は、筆者が唱えてやまない、ソムリエは何よりもまずサーヴィスのスペシャリストであるべきことを確認した旅でもあった訳です。
 

ページの先頭へ

第二十七回
それでもすべては経験と共に始まる
――チャールズ・スペンス『おいしさの錯覚』を読む――

 過日のリーファーワイン協会の理事会の際、下野会長からこんな本が出ていますがご存知ですかと教えていただいたのが、チャールズ・スペンス、長谷川圭訳『おいしさの錯覚―――最新科学でわかった美味の真実――』(角川書店、20182月刊)でした。その場で本を見せていただくと目次に「雰囲気」と名の付いた章もあり、フランス料理サーヴィス界の重鎮でもあられる下野会長としては、フランス料理の評価が料理の味一辺倒になっていることに対するアンチテーゼの論拠となる本の一つとしてご教示下ったのかと理解し、早速購入し読破した次第。つまり、美味しさが雰囲気に左右されることが科学的に証明されるとすれば、フランス料理の批評は料理だけを語っただけでは不十分ということになります。これは筆者がこの連載の最初に提示した「フランス料理の正三角形」で、サーヴィスが三つの柱の一つ(他の二つは料理、ワイン)として等価に評価されるべきという主張とも合致します。しかし、実際に読み終わってみると、この手の議論にありがちなある種の居心地の悪さを感じ、はっきり言えば、ある矛盾を見て取ることが出来ます。それは「感覚(的経験)は(科学的=客観的)真実に価するか」という古代ギリシアのプラトン以来提起されてきた古くて新しい問題に他なりません。そして、著者の陥った矛盾はまた、彼の協力者であり、本の序文を起草しているイギリスいや、エル・ブジ以降の世界のグラン・キュイジーヌを先導するシェフの一人、「ザ・ファット・ダック」のヘストン・ブルメンタールの料理に感じる違和感の原因であると筆者は考えます。そこで本稿では美食批評の根幹にかかわる「美味」について、本書を繙きながら考察してみたいと思います。
 
 まず、著者チャールズ・スペンスはオックスフォード大学の実験心理学者、知覚研究者。2008年、「ソニックチップ」に関する研究でイグノーベル賞栄養学賞を受賞。ソニックチップとは「ポテトチップスを噛むときに出るパリパリという音をコンピュータで意図的に操作し、高音を強調すると、それを聞きながらポテトチップスを食べた場合、実際よりもパリパリ・サクサクしていておいしく感じる」(邦訳、386頁)という科学的真実のことです。スペンスはこのような研究を行なう学問を「ガストロフィジックス」と名付けています。ガストロノミ(美食)とサイコフィジックス(精神物理学)を合わせた造語であるガストロフィジックスの定義を著者は「私たちが食べ物や飲み物を味わうときに生じる複数の感覚に作用する要素を研究する学問」(14頁)としています。
 
 ここで注目すべきは「ガストロフィジックスの研究者は人々が何を考えているかには興味がない。人々が実際に何をするか、特定の疑問にどう答えるか、といったことに注目」(15頁)するということです。これは心理学では「行動主義」という立場に相当すると考えられます。その提唱者ワトソンは人間の心はブラックボックスのようなものでその中を詮索しても無駄である。心理学に出来ることは人間の行動を観察することだけで、心にある特定の刺激(stimulation)が与えられたとき、ある特定の反応(reaction)を示すことが発見された場合、その刺激を変えれば、反応も変わるはずである、と考えたのです。これが有名なS-R理論、刺激=反応理論と呼ばれているものです。こうして、ソニックチップスであれば、湿気たポテトチップスでも普通に食べるのではなく、そこに「ポテトチップスを噛み砕いたときの音を増幅させる」つまり、刺激を変えると、「人々は自分が食べているポテトチップスが実際よりサクサクで、新鮮であると感じること」つまり反応が変わることを「実証してみせた」(16頁)ということになります。こうして、問題は下線を付した「感じる」即ち「感覚」は「錯覚」か否かということになりましょう。
 
 「感覚」をどう扱うかに関しての著者のアプローチは「クロスモーダル(総合感覚)」と「マルチセンソリー(多感覚)」というキーワードに集約されます。どちらも「私たちの感覚はこれまで考えられていた以上に相互に作用し合っているという事実を表して」いて、クロスモーダルは「一つの感覚がほかの感覚における感じ方に影響すること」を表わし、マルチセンソリーはソニックチップスがそれに該当する現象であると言います。それは「一つの食品を口にしたときの体験に関係する二つの感覚を通じて、私たちが聞いたり感じたりした情報が脳内で新鮮さとサクサク感の一つのマルチセンソリーな知覚として統合される」と理解するのです。つまり、ポテトチップスを食べるとサクサク感という食感とサクッという音が同時に生じます。というかこの二つの感覚は切っても切れない関係にある。その一方の聴覚に増幅という人為的な刺激の変化を加えると食感の方にも変化が生じる。つまり、同時的でありながら食感は聴覚に反応するということです。いずれにせよ、ポイントは感覚が「複雑化」するとそこに「錯覚」が生じるということではないでしょうか。ということは、翻ると「単一の原子的」感覚は錯覚「でない」、真なる感覚であるということになります。
 
 実際、本書全十三章の第五章までは「味」=味覚、「香り」=嗅覚、「見た目」=視覚、「音」=聴覚、「手触り・口当たり」=触覚とそれぞれの感覚が単体で論じられ、論旨も明確で説得力があるように思われます。ところが第六章以降、「雰囲気」、「ソーシャルダイニング」、「機内食」といった総合的な状況などに論が及ぶと科学的というよりはただの経験則のようなものになってしまうのです。例えば、「マルベックなどの赤ワインの深みを際立たせたいのなら、カール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』やプッチーニの『トゥーランドット』の第三幕、「誰も寝てはならぬ」などが適している」(193頁)といった一節を読むと正直ガッカリします。科学的どころか、余りに主観的に過ぎますし、挙げられたクラシックの名曲が人口に膾炙し過ぎてスノッブというか陳腐な趣を隠せません。「『はい、あーんして!』 フランス語風の魅力的なアクセントで、その女性は言った。私は口を開いた。すると、それが口の中に入ってきた。……《ザ・ファット・ダック》で体験した一口のライムゼリー、それは食事が栄養の摂取以上の存在であることを示す一例だと言えるだろう」(8頁)と冒頭、本書はこのように始まるのですが、そのような体験の分析は科学的水準なのか、ワインに合う音楽のレヴェルの話なのか、実は終始明快ではないように思われるのです。
 
 その原因は果たして「マルチセンソリー」な体験よろしく、例えばポテトチップスを食する場合、食感と聴覚はそれぞれの原子的要素に分析されるのですが、それは人為的な操作に過ぎないのか、はたまた本来的には各感覚が別々にあってそれがただ「総合」しているに過ぎないのか。どうも先程も述べましたようにそれぞれの原子的感覚が前提としてあり、それらは「真」であるという確信は揺らいでいないように思うのです。しかし、プラトン以来、感覚そのものが間違うという考えがあるのも事実です。つまり、感覚は蓋然的に過ぎず、客観的に真なのは数学的な「非感覚的」な知に他ならないと。実際、リーマン幾何学のように平行線が交わる世界を考えることが出来、それは理論的に整合性を持つ「真」なる知識でありながら、それは決して感覚的に経験することはないという事実があるのです。結局、「錯覚」を謳いながら、一方で感覚を無条件に信奉するというダブルスタンダードがそこにはあるのです。ですから、厳密な科学的手法がいつの間にか「お口をあーん」に収斂してしまう結果に。魚料理を食べるときに波の音を流して照明を海の青さにするといった演出は確かに美味しく感じさせることになるのかもしれませんが、それが「美食」でしょうか。しかも、そのようなことが三つ星の店で高いお金を払って食事することなのでしょうか。「お口をあーん」に至っては、女性客には美男を、いやゲイの人にも美男を、ロリコンの人には美女ではなく美少女を、生身の人間が苦手な人には……、ということになってしまうのではないでしょうか。結局のところ、ビッグデータを活用して、オーダーメイドの食事を作るしかない。しかるに、実際は真逆で、シェフのお任せを客全員が強要される事態に。
 
 ここにはエル・ブジ以降の分子料理など最新の「科学」に裏打ちされた美食の陥る危険性が垣間見られます。新たな美食を見出すための「手段」のはずの「科学」がいつの間にか「目的」となり、新奇な手法を見出すことが美食であるかの如くになってしまう。それは本末転倒ではないでしょうか。実は同じ危惧が、翻訳中のピュドロウスキの本の中にも記されているのです。それはピュドロウスキの師でもあるゴー=ミヨの故クリスチャン・ミヨが泡(エスプーマ)など分子料理の「災禍」を指摘し、それらを「キュイジーヌ・リーブル(自由料理)」と呼んで批判、節度、地方〔料理〕、ビストロ料理への回帰を奨励したという一節(第十八章)です。ヌーヴェル・キュイジーヌの名付け親であるミヨが最新の潮流には批判的であったことは興味深く、またそれがすでに十年ほど前には書かれていたことにも驚きです。さらに、ミヨは分子料理を第一次大戦前フランスでジュール・マンカーヴによって提唱され一大ブームとなった「未来派料理」と比較して批判しているとのこと。実はスペンスは分子料理など「モダニスト・キュイジーヌ」の起源はイタリアの「未来派料理」にあると指摘し、最後の第十三章を「未来派への帰還」として一章を費やしています。イタリア未来派料理のマニフェストは1930年にマリネッティが発表した「未来派料理宣言」なのですが、マンカーヴは1913年に「未来派料理へのマニフェスト」を発表しています。両者の関係については調べる時間がなく現段階ではご報告できず申し訳ない次第ですが興味深い研究テーマであることは事実です。
 
 また、ピュドロウスキはミヨが推奨した節度、地方〔料理〕、ビストロ料理への回帰が現在に至る「ビストロノミ」の興隆に繋がっていると論じています。ファット・ダックでの食事は料理だけで一人300ポンド、約45000円だそうです。ワイン代やサーヴィス料などを加えるといくらになることやら。それで「お口にあーん」的なあの手この手のエンターテイメント的な食事が楽しめれば、それで良いという方もいらっしゃるでしょう。しかし、ビストロ感覚で美食をという「ビストロノミ」あるいは「ビストロ・ガストロ」の精神は確実に伝播し、現在のミシュラン一つ星クラスの店はまさにビストロノミを洗練、グレイドアップさせたものと筆者は理解しています。
 
 本書から「ガストロフィジックス」が「モダニスト・キュイジーヌ」や大企業のマーケティングに大いに貢献していることが明確に読み取れます。しかし、「美食」の在り方は常に問われなくてはならない事柄です。ミヨの歩んだ道はそうした事情を深く考えさせるものがあります。もちろん、本書で指摘された様々な実験結果はビストロノミを考えるときでさえ、有益なヒントを与えてくれるものと確信しています。そこで会員用の頁では、主にワインに関する本書の記述について考察してみたいと思います。
 

ページの先頭へ

目次

著者Profile

関 修(せき おさむ)

フランス現代思想
文化論
(主にセクシュアリティ精神分析理論/ポピュラーカルチャースタディ)
現在、明治大学法学部非常勤講師。
2014年、明治大学で行われた「嵐のPVを見るだけの授業」が話題となった。
 

経歴

1980年:千葉県立船橋高等学校卒業
1984年:千葉大学教育学部卒業 
1990年:東洋大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程単位取得満期退学、東洋大学文学部非常勤講師 
1992年:東洋大学文学部哲学科助手
1994年:明治大学法学部非常勤講師  、他に、岩手大学、専修大学、日本工業大学などで非常勤講師を務める 
 

著書

『挑発するセクシュアリティ』(編著、新泉社)
『知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門』(編著、夏目書房)
『美男論序説』(夏目書房)
『隣の嵐くん~カリスマなき時代の偶像』(サイゾー)
『「嵐」的、あまりに「嵐」的な』(サイゾー)
 

翻訳[編集]

G・オッカンガム『ホモセクシュアルな欲望』(学陽書房,1993年)
R・サミュエルズ『哲学による精神分析入門』(夏目書房,2005年)
M・フェルステル『欲望の思考』(富士書店,2009年)
 

関修公式WEBSITEへ ▶︎

 

Series